2010年8月 4日

第87回 太陽の季節:夏の日 向日葵 蝉

第87回【目次】         
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    * 和歌
    * 散文
    * 訳詩・近現代詩
    * みやとひたち



10アベリア.jpg                                           22.7.10 東京都清瀬市
1 真夏の日 

  強い日差しに高い気温、時に激しい夕立。まさに夏の盛りを過ごしております。

      
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  「西遊記外伝」ともいうべき中島敦の作品『悟浄歎異ー沙門悟浄の手記--』に次のような一節があります。『西遊記』の登場人物のひとり、曲者の沙悟浄が孫悟空を語る部分です。

   強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう!
   全身些〔いささ〕かの隙もない逞しい緊張。律動的で、しかも一分〔ぶ〕の
   むだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体が歓び・たけり・汗ばみ・跳ねて
   いる・その圧倒的な力量感。いかなる困難をも欣んで迎える強靱な精神力の
   横溢。それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵よりも、鳴盛る蝉よりも、もっ
   と打込んだ・裸身の・壮〔さか〕んな・没我的な・灼熱した美しさだ。あの
   みっともない猿の闘っている姿は。

  闘う孫悟空の「壮んな・没我的な・灼熱した美しさ」を譬えるのに用いているものが、輝く太陽、咲誇る向日葵、鳴(き)盛る蝉であるというのが目を引きます。これはこの真夏の時期を象徴する自然に他なりません。真夏の盛んなさまは、何とも手に負えないようであり、またそのことも含めて大きな魅力であることは人に共感される事実です。その証に、今苦しめられている暑さが去り、空の色が変わり、向日葵が枯れ、蝉の声がしなくなると、私たちは毎年どれほど大きな喪失感を覚えることでしょう。涼しい秋を身体に喜びながら、夏という季節の終焉を何ものかの死のように心のどこかで悼むかのようです。

  今はその真夏。ひと時の激しい魅力を味わうべき時なのでしょう。

      
20アベリア蜂.jpg                                          22.7.20 東京都清瀬市

2 短き歌を知らぬもの

  さて、向日葵は咲きましたが、今年は庭の蝉が遅いと思っておりました。庭に空蝉は見るのですが、声が聞こえません。

  若い知り合いに言われました、「知ってますか?」。この人はとかく倒置表現で話すのが癖です。「何を?」とこちらが訊かなければなりません。「今年は蝉が聞こえないのですよ。蝉が鳴かないのは大地震の前触れですよ」。

  今年蝉が遅いのはこの庭だけではないようでした。

      
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  そんなこともあって、例年にない蝉の遅さを気にしておりました。大地震もあっては困ります。それがこの8月3日未明、まだ朝にはほど遠い時間にコロコロと音を立て始め、午前4時、賑やかに合唱が聞こえます。我が家の蝉の夏が始まりました。

      
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    啼きに啼くあさまし長しかまびすし短き歌を知らぬ蝉かな

  「生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける」と観る『古今集仮名序』の心で聴けば、蝉は蝉なりの歌を歌っておりますが、こう暑かったからなのでしょうか、蝉の歌にも難を付けた人もいます。ここに御紹介したのは与謝野鉄幹寛の歌です。ここで言う「短き歌」とはもちろん物理的な長さを言うに違いありません。歌人与謝野晶子がこれに注釈を付けています。

    何と何時までも啼き続ける蝉であらう。何と云ふ饒舌な蝉であらう、
   やかましい、うるさい、彼等は自分等が僅かな三十一文字で複雑な感情
   を簡潔に余すなく述べるやうな技術を持たないのである。憐むべき蝉だ
   と云つてある。蝉はそんなものであるが、その声を聞く作者の心には無
   駄な文字を多く費すだけで、効果の少い拙い長詩を作る人達を歯がゆく
   思ふ所があつたのであらう。
                   『註釈與謝野寛全集』(与謝野晶子)

  歌の注釈としては当を得て、たしかにそうもありましょうが、そもそもこの歌をどちらかというと多弁な印象の歌詠みである与謝野寛が詠んでいることが、面白いと思いました。評した晶子に悪意はあるはずもありませんが、これは危険なな注釈です。「与謝野寛もまた三十一文字で複雑な感情を簡潔に余すなく述べるやうな技術を」持っていないではないか、と、これを読んで気づく人がないとは思えないからです。



      
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  この歌は、蝉のうるささを「憐むべき」ものと慨嘆して詠んだもので、同語の反復や否定的評価を羅列する「啼きに啼くあさまし長しかまびすし」という表現はそのうんざりした気分を表すにふさわしいものと言えるでしょう。

  しかし、別にこういうテーマでなくとも、何を詠んでも与謝野寛の歌がどこかちまちまと暑苦しいのは、技術の問題ではなく人物がそうだからなのだと思えます。同じ抒情を詠んで、妻の晶子の颯爽とした歌に確かな才が漂うのと対照されて、いかにも小物の正体を露呈するところに歌の、文学の、恐ろしさがあります。そんな男を人と争ってまで、友情を傷つけてさえ手に入れようとするところに男女の愛の不可解があります。

     
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【文例】 和歌

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