みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第12回 雨はやさし:雨・雨ふり・五月雨・梅雨

「泉鏡花集」を開くみや

1 入梅
  雨の季節がやって来ました。ほぼ全国的に昨年より一週間遅い梅雨入りだそうです。
「梅雨(ばいう)」とは中国の命名ですが、もともとは陰暦の三月から五月、それは長江以南の地域で梅の実が黄色く熟するころ、一月ほど続く長雨を「梅雨」また「黄梅雨」と呼んだ名称と言います。高温多湿でカビの発生も多いことから黴雨(ばいう)とも呼ばれます。明代の『本草綱目』(李時珍)に「梅雨、或は黴雨に作る。其の衣及び物を沽(ぬら)し、皆な黒黴を生ぜしめるを言ふなり。…此れ皆な湿熱の気の鬱し、遏(さへぎ)り、燻(いぶ)し、蒸し、醸(かも)されて霏雨(ながあめ)と為る。人其の気を受くれば則ち病を生じ、物其の気を受くれば則ち黴を生ず」とあります。日本の梅雨も、かつてはこの通りのじめじめした、とかく衛生が問題になる季節でした。

  梅雨(ばいう・つゆ)は我が国の古典作品の中では「五月雨(さみだれ)」と呼ばれる長雨がそれです。五月雨は文字通り陰暦の五月に降る長雨を指しますが、陰暦の五月一日は現在の暦では六月の十日前後に来ます。まさに平年の入梅の日付がこのころです。梅雨の平均日数が42日ということですから、陰暦の五月はすっぽりと梅雨の中に呑まれておりました。陰暦の五月はかつては忌み月で、結婚をはじめ祝い事、大がかりなことはしない月と決まっていました。これはやはり、この時期が比較的高温の雨期であったことと関係があるような気がします。

2 雨の恵み
  いよいよ梅雨に入り、しばらくは傘を離せない日を送らねばなりませんが、自然科学の力でかなりの不便を克服できるようになった今日では、自然のいとなみにさほど左右されずに、ある時にはそれを押さえ込むようにして、したいことをかなり通して暮らしているといえます。かつて私たち人間の暮らしがもっと素朴であったころ、自然の現象は神の定めに等しく、人は他の動植物と一緒に自然から恩恵とともに大きな制約も受け、それに応じる暮らし方をしてきました。子供の歌にはそれがわかりやすく看て取れます。

雨(第二連まで)  北原白秋
 雨がふります。雨がふる。
 遊びにゆきたし、傘はなし。
 紅緒の木履[かつこ]も緒が切れた。

 雨がふります。雨がふる。
 いやでもお家[うち]で遊びましょう。
 千代紙折りましょう、たたみましょう。
          『赤い鳥』(大正7年)

  雨降りでしかたがない時以外は子供は外に遊びに行くものでした。ですから子供は雨が止むように、晴れますようにと、子供なりの真剣さでお祈りをしたものです。てるてる坊主に「あした天気にしておくれ」と頼むあの歌は知らない人はないでしょう。ところで、その反対を頼む「雨降り坊主」というのはお聞きになったことがおありでしょうか。こんな詩がありました。

雨降り坊主  夢野久作

  テルテル坊主 テル坊主
  天気にするのが上手なら
  雨ふらすのも上手だろ

  田圃がみんな乾上[ひあが]って
  稲がすっかり枯れてゆく
  雨をふらしてくれないか

  僕の父さん母さんも
  ほかの百姓さんたちも
  どんなに喜ぶことだろう

  もしも降らせぬそのときは
  嘘つきぼうずと名を書いて
  猫のオモチャにしてしまう

  それがいやなら明日[あした]から
  ドッサリ雨をふらせろよ
  褒美にお酒をかけてやる

  雨ふり坊主フリ坊主
  田圃[たんぼ]もお池も一パイに
  ドッサリ雨をふらせろよ

  梅雨は本来農業国であった我が国にはなくてはならない雨なのでした。古い歌には子供の歌うものでも雨を厭い嫌うものばかりでなく、恵みとして請い願う詩がいくらも見られます。今や古典の教材のようになった「夏は来ぬ」の第2連の歌詞、

 さみだれのそそぐ山田に
 賤の女[しづのめ]が裳裾[もすそ]ぬらして
 玉苗[たまなへ]植うる夏は来ぬ

も、雨に濡れながら賤の女(のちに「早乙女」に改変)が田植えする情景で、季節のものとして決して辛くはない雨が歌われています。さかのぼると「五月雨(さみだれ)」の詩歌のかなりの量は農耕に関わる内容を歌っています。今日の雨の詩に憂鬱や無聊をばかりみるようになったことでも、この国の農業離れが改めてわかります。

  この「雨降り坊主」の詩はこのたび初めて見ました。造りは「てるてる坊主」によく似ています。はじめは素直にこちらの事情を語って雨降りのお願いをし、叶えてくれたらそれに報いる、叶えてくれなかったらひどい目に遭わせるという取引で「お願い」をしています。「お願い」とはいえ、「てるてる坊主」にも「雨降り坊主」にも断る自由はないようで、実に強引な一方的な契約です。この第4連、もし降らせてくれなかったら「猫のオモチャにしてしまう」というのは猫をよく知っている人ほど戦慄を禁じ得ない怖い罰でしょう。


  我が家のみやの気に入りはキャラメルの箱の半分くらいの大きさのネズミのおもちゃです。ネズミとして好んでいるのではもちろんありません。プラスチックの空洞にビーズが入ってカラカラと鳴る卵形のボディにラメ糸でコーティングしたゴムを隙間なく巻き付けて作ったおもちゃで、目と耳と尾を付けてネズミをかたどっています。ラメ糸のお陰でみやの手でもよく引っかけて持つことができ。投げ上げれば丁度よい重さで飛んでゆき、落ちればよく弾みます。一人でも遊びますが、家族に投げてもらってそれをダッシュで拾いに行き、くわえて走ってくるのが無上の楽しみのようです。夜中、寝ている枕元に通称チュータロウをくわえてみやがやってきます。説得は無効なので、もうこのところは耳を噛まれたり顔をパンチされたりする前に諦めて起き、廊下でチュータロウを投げております。30回ほど投げてこちらは放免になります。チュータロウは数日で形骸を留めないところまで遊ばれてしまいます。「猫のオモチャにしてしまう」とは、こういう目に遭わされるということです。目下これがないと済まないほど夢中のおもちゃなので、みやはチュータロウのスペアを山ほど持っております。


チュータロウ

一人でチュータロウと遊ぶ


3 やさしい雨

  南風は柔い女神をもたらした
 青銅をぬらした 噴水をぬらした
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした
 潮をぬらし 砂をぬらし 魚をぬらした
 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした
 この静かな柔かい女神の行列が
 私の舌をぬらした
        『Ambarvalia』(昭和22年)より「雨」 西脇順三郎

  外出しようとすれば雨はやはり不便ですし、空の模様としては暗く、青い高い空が恋しくなります。しかし、そんな雨でもどこか好ましく思えるようになる、雨に心を慰められるようなやさしみを感じるようになるのは、大人になってからでなければ分からない感覚かも知れません。自分のじかに体験した雨の不便さや不快、また雨で叶えられなかった計画や約束の悲しさなどのほかに、長く生きていれば雨にまつわる楽しい思い出や幸福な体験も蓄えられます。また、何より大きいのは直接の体験のほかに本の中でさまざまな雨に出会うことでしょう。ここにいては知り得ない見知らぬ異国異界の雨のほかに、この日本の、私たちにわかる風土の中のことでも、過去の人の幸せな美しい雨の記憶を実に希有のものとして分けてもらえることがあります。「星よりひそかに、雨よりやさしく」がしみじみと懐かしくわかるのには、多分幾多の書物のやさしい雨、それに慰められたさまざまな悲しみや苦しみを自分のものとして知った経験が与(あずか)っているに違いありません。何にせよ、読書の恩恵ははかりしれません。

  晴耕雨読という言葉があるように、雨の季節は室内で勉強する時間に当てるのが古来文人の営みです。思えば梅雨こそ本を読むのによい時期です。

  文人ではないから構わないのですが、どうも歴代の我が家の猫を見ていると、雨、曇りの日中は睡眠の時間がひときわ長いようです(夜はいつも通り遊んでいるのですが)。前にいたおっとりした猫は大きな体をしていましたが、呼んで起こしてやらないとご飯も食べずに寝続けました。みやはそれほどではありませんが、このところあまり本を開きません。ちょっと見てはその上で寝てしまったりしています。本来狩猟型の生き物の猫族は猟に行けない日はひたすら休養にあてるのが習い、雨の日は眠い眠い、なのだという説を聞いたことがあります。猫の梅雨は雨休みのようです。

【文例】(※は本文中に記事あり)

[漢詩]

・約客(客と約す)  趙師秀(宋)
 黄梅時節家家雨
 青草地塘処処蛙
 有約不来過夜半
 閑敲碁子落燈花
  黄梅の時節 家家の雨
  青草の地塘[ちたう] 処処の蛙
  約[やく]有れども来たらず 夜半を過ぐ
 閑[しづ]かにを碁を敲[う]てば 燈花落つ
*第4句「燈花」は燈心のこと。静寂の中、一人で打つ碁石を置くパチンという微かな響きで、燃え尽きた灯心が折れて落ちる、というさま。

・ 五月十九日、大雨(大いに雨降る)  劉基(明)
  (陰暦五月十九日は現行暦の六月下旬)
 風駆急雨灑高城
 雲圧軽雷殷地声
 雨過不知龍去処
 一池草色萬蛙鳴
  風駆[か]りて急雨[きふう]高城[かうじやう]に灑[そそ]ぎ
  雲圧[あつ]して軽雷[けいらい]地に殷[いん]たる声[こゑ]
  雨過ぎて龍の去る処を知らず
  一池[いつち]の草色萬蛙[ばんあ]鳴く

[和歌]

・五月雨[さみだれ]にもの思[も]ひをれば時鳥[ほととぎす]
 夜深[よぶか]く鳴きていづち行くらむ
 『古今和歌集』153 紀友則

・久かたの雨つつみして来[こ]ぬ人を
 いつとか待たむ五月雨[さみだれ]の空
 『うけらが花』橘千陰(享和2年)
 *詞書きに「五月雨降る頃人のもとへ」

・五月雨[さみだれ]もかぎりあればや
 楝[あふち]散る岡部[をかべ]の庵[いほ]に夕日さしける
 『うけらが花』橘千陰(享和2年)
 *詞書きに「五月雨晴」

・※ 五月雨[さみだれ]に濡れつつ植ゑし小山田の
 畦[あぜ]こす水[みづ]に月ぞうつろふ
 『うけらが花』橘千陰(享和2年)
 *詞書きに「五月雨晴」

・かたつぷりひさしに出でし雨ふる日
 瓦にさきぬなでしこの花
 与謝野晶子『恋衣』(明治38年)

・ 胸さびし仰げば瑠璃の高ぞらに
 みどりの雨のまぼろしを見る
 若山牧水『海の声』(明治41年)

・ みだれ射よ雨降る征矢をえやは射る
 この静ごころこの恋ごころ
 若山牧水『海の声』(明治41年)

・ いつしかに夏となれりけり
 やみあがりの目にこころよき
 雨の明るさ!
 石川啄木『悲しき玩具』

[散文]

・道端の熊笹が雨に濡れてゐるのが目に沁みるほど美しい。
 『雨の上高地』寺田寅彦

・私は雨の日が好きです。それは晴れた日の快活さにも需めることの出来ない静かさが味ははれるからであります。毎日毎日降り続く梅雨の雨は、私のやうな病気勝ちな者にとつては、いくらか鬱陶し過ぎるやうですが、それすらある程度まで外界のうるささからのがれて、静かな心持をゆつくり味はふことが出来るのを喜ばずにはゐられません。
梅雨の雨のしとしとと降る日には、私は好きな本を読むのすら勿体ない程の心の落ちつきを感じます。かういふ日には、何か秀れたものが書けさうな気もしますが、それを書くのすら勿体なく、出来ることなら何もしないで、静に自分の心の深みにおりて行つて、そこに独を遊ばせ、独を楽しんでゐたいと思ひます。  『雨の日に香を雨の日に香を燻く』薄田泣菫 より抜粋

[近現代詩]

・雨あがり  北原白秋『雪と花火』(明治43)

 やはらかい銀の毬花の、ねこやなぎのにほふやうな、
 その湿つた水路に単艇はゆき、
 書割のやうな杵屋の
 裏の木橋に、
 紺の蛇目傘をつぼめた、
 つつましい素足のさきの爪革のつや、
 薄青いセルをきた筵若の
 それしやらしいたたずみ・・・・・・
 ほんに、ほんに、
 黄いろい柳の花粉のついた指で、
 ちよいと今晩は、
 なにを弾かうつていふの。

・河岸の雨 北原白秋『銀座の雨』(明治45)より

 雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇いろに、薄黄に、
 絹糸のやうな雨がふる、
 うつくしい晩ではないか、濡れに濡れた薄あかりの中に、
 雨がふる、鉄橋に、町の燈火に、水面に、河岸の柳に。
 雨がふる、啜泣きのやうに澄みきつた四月の雨が
 二人のこころにふりしきる。
 お泣きでない、泣いたつておつつかない、
 白い日傘でもおさし、綺麗に雨がふる、寂しい雨が。

 雨がふる、憎くらしい憎くらしい、冷たい雨が、
 水面に空にふりそそぐ、まるで汝の神経のやうに。
 薄情なら薄情におし、薄い空気草履の爪先に、
 雨がふる、いつそ殺してしまひたいほど憎くらしい汝の髪の毛に。

 雨がふる、誰も知らぬ二人の美くしい秘密に
 隙間もなく悲しい雨がふりしきる。
 一寸おきき、何処かで千鳥が鳴く、歇私的里の霊、
 濡れに濡れた薄あかりの新内。

 雨がふる、しみじみとふる雨にうれ連れて、雨が、
 二人のこころが啜泣く、三味線のやうに、
 死にたいついていふの、ほんとにさうならひとりでお死に、
 およしな、そんな気まぐれな、嘘つぱちは。私はいやだ。

 雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇色に、薄黄に、
 冷たい理性の小雨がふりしきる。
 お泣きでない、泣いたつておつつかない、
 どうせ薄情な私たちだ、絹糸のやうな雨がふる。

・※ 雨  西脇順三郎

 南風は柔い女神をもたらした
 青銅をぬらした 噴水をぬらした
 ツバメの羽と黄金の毛をぬらした
 潮をぬらし 砂をぬらし 魚をぬらした
 静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした
 この静かな柔かい女神の行列が
 私の舌をぬらした
 『Ambarvalia』(昭和22年)


[唱歌・童謡]

・かすめる空 文部省唱歌


かすめるそらに。雨ふれば。
草木もともに。うるほひぬ。
わらへるはな。にほへるやま。
類なの。ながめかな。


 山の端はれて。つき清く。
ちさとのくまも。かくれなし。
きらめく露。なくなるむし。
たぐひなの。秋の夜や。

・雨ふり  文部省唱歌

 あめあめ ふるふる たにはたに
 こどもは せっせと なえはこび
 こいぬも かけます たんぼみち

 あめあめ ふるふる のにやまに
 おとなは そろって たうえする
 つばめは とびます かさのうえ

・※ 雨  北原白秋

 雨がふります。雨がふる。
 遊びにゆきたし、傘はなし。
 紅緒の木履[かつこ]も緒が切れた。

 雨がふります。雨がふる。
 いやでもお家[うち]で遊びましょう。
 千代紙折りましょう、たたみましょう。

 雨がふります。雨がふる。
 けんけん小雉子[こきじ]が今啼いた、
 小雉子も寒かろ、寂しかろ。

 雨がふります。雨がふる。
 お人形寝かせどまだ止まぬ。
 お線香花火もみな焚いた。

 雨がふります。雨がふる。
 昼もふるふる。夜もふる。
 雨がふります。雨がふる。

・※ てるてる坊主  浅原鏡村

  てるてる坊主 てる坊主
 あした天気に しておくれ
 いつかの夢の 空のよに
 晴れたら 金の鈴あげよ
 てるてる坊主 てる坊主
 あした天気に しておくれ
 私の願いを 聞いたなら
 あまいお酒を たんと飲ましょ

 てるてる坊主 てる坊主
 あした天気に しておくれ
 それでも曇って 泣いてたら
 そなたの首を チョンと切るぞ
    『少女の友』(大正10年)

・※ 雨降り坊主  夢野久作

  テルテル坊主テル坊主
 天気にするのが上手なら
 雨ふらすのも上手だろ
 田圃がみんな乾上[ひあが]って
 稲がすっかり枯れてゆく
 雨をふらしてくれないか

 僕の父さん母さんも
 ほかの百姓さんたちも
 どんなに喜ぶことだろう

 もしも降らせぬそのときは
 嘘つきぼうずと名を書いて
 猫のオモチャにしてしまう

 それがいやなら明日《あした》から
 ドッサリ雨をふらせろよ
 褒美にお酒をかけてやる

 雨ふり坊主フリ坊主
 田圃もお池も一パイに
 ドッサリ雨をふらせろよ

・アメフリ  北原白秋
 アメアメ フレフレ、カアサン ガ
 ジャノメデ オムカイ ウレシイナ
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン。

 カケマショ カバン ヲ カアサンノ
 アトカラ ユコユコ、カネ ガ ナル。
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン。

  アラアラ アノコ ハ ズブヌレダ、
 ヤナギ ノ ネカタ デ ナイテイル。
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン。

 カアサン、ボクノヲ カシマショカ。
 キミキミ コノカサ サシタマエ。
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン。

 ボクナラ イインダ カアサンノ
 オオキナ ジャノメ ニ ハイッテク。
 ピッチピッチ チャップチャップ
 ランランラン。
  『コドモノクニ』(大正14年)
*表記は全文カタカナ表記であることを始めとしてテキスト
(『日本童謡集』与田準一編 岩波文庫 2002年版)通り。

・あまがさからかさ  武内俊子
 
  あまがさ からかさ かささして
 とうさん むかえに 行きましょう
 雨が ふるふる 日暮れ道
 つんつん つばめの 宙返(ちゅうがえ)り

 あまがさ からかさ かさの波
 おかさの 行列(ぎょうれつ) 並んでく
 わたしは とうさん おむかえに
 あの子は かあさん おむかえに

 あまがさ からかさ かさあげて
 とうさん ここよと 呼びましょう
 雨が ふるふる 停車場(ていしゃば)の
 垣根(かきね)に きれいな バラの花

 あまがさ からかさ かさ回そ
 とうさん おかえり うれしいな
 つばめ 来い来い ここまで来い
 いっしょに おうちへ 帰りましょ

・雨ふれば  まど・みちを
 雨ふれば
 お勝手も
 雨のにおい している。
 ぬれたねぎなど
 青く おいてある。

 雨ふれば
 しょうじの中、
 かあさん やさしい。
 ぬいものされる針
 すいすいと ひかる。

 雨ふれば
 とおりの もの音
 ぬれている。
 ときおり
 ことり などする。
   『コドモノクニ』(昭和9年)

・あめふりくまのこ  鶴見正夫

  おやまに あめが ふりました
 あとから あとから ふってきて
 ちょろちょろ おがわが できました

 いたずら くまのこ かけてきて
 そうっと のぞいて みてました
 さかなが いるかと みてました

 なんにも いないと くまのこは
 おみずを ひとくち のみました
 おててで すくって のみました

 それでも どこかに いるようで
 もいちど のぞいて みてました
 さかなを まちまち みてました

 なかなか やまない あめでした
 かさでも かぶって いましょうと
 あたまに はっぱを のせました


雨の日、メダカを見る


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