比田井小葩(1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

 

あ、あめだな

あめのこどもだな

 

小葩の1965年頃の作品ですが、自由に書き進めているようで、それでいて独自の書風をもって計算されつくした構図が、ちょっと古典の仮名のようにもみえる不思議な表情を持った作品ですね。

 

 

1963年か、64年頃に家族4人で関西旅行に行きました。

横浜から準急ひびきに乗って、京都まで7時間半の長旅でしたが、トランプなんかをしてすごしました。

窓から首を出して下を見ると、車体の側面からかげろうのようにもやもやしていたので、電車ではなくデイーゼルカーなんだと思った覚えがあります。

調べてみると、ひびきは、本来は日光に行く車両が1964年まで東海道線で使われていたそうで、夢ではなかったようです。

 

その日は京都のホテルに泊まり、朝早く二条城のまわりを散歩して、そのあとタクシーを半日コースで貸し切って、あまりみんなが行かないようなところと母が注文をつけると、最初こそ清水寺に行きましたが、あとは生々しい手の跡がついた血天井のお寺と、鴬張りの廊下のあるお寺など、小学生にはちょっとわかりにくいコースでした。

 

夕方近くになって寺町のはずれに行くと、当時は、路面電車の廃止後間もないがらんとした通りに点々と建つ小さな骨董屋さんの一軒に入りました。

父と母は、店のご主人と何やら話した後、小上がりの奥の方に行ってしばらくたって戻ってくると、また何か話して店を出ました。

次の日の朝一番に、タクシーで池大雅美術館に行くと、展示してある作品を見ながら、その中の一つの書の前で熱心に観察し母を呼ぶと、ほらね、と小声で言うと母もうんうんとうなずき、満足そうに美術館をでました。

 

そのあとは奈良に行き、タクシーで墨やさんに着くと、煤をとる様子を見せてもらいながら何か込み入った話をしていましたが、アメリカに持って行く煤の調達などの事だったのでしょうか。

 

それですべてが終わったので、帰る時間まで奈良ドリームランドに行きました。

なんだかあまり混んでいなかったような覚えがありますが、半分だけ沈む潜水艦とか、ゴーカートと書いてあるのに、軽のコニーグッピーというオープンカーの助手席に乗ってコースを回るだけのだとか、ちょっと残念な記憶がありましたが、父が初期の、途中でフィルムをひっくり返すタイプの8ミリで撮ってくれたのを帰ってから見るのは楽しかったです。

 

そしてしばらくすると、大きな木箱が送られて来、あの骨董屋さんでの話がこれだったのでした。

 

父はみんなに広げてみせると、これが池大雅で、いかにすばらしいものかを力説したのですが、小学生の僕にはあの美術館にあったのみたいだなー、くらいしか思いませんでした。

 

で、それからもう何十年も時が経ち、改めて今考えるに、これって本物なの?

なんて疑問がわいてきますが、それにこの後あれをどうするの??、、、悩みは尽きません、、、

 

 

 

今回取り上げられている「あ、あめだな」は私の好きな小葩作品の一つです。

よかったなあ、と思っていたら、池大雅の屏風に煤だと?

それは一筋縄ではいきませぬ!

 

関西旅行が1963年だとすれば、私は13歳で、早生まれの隊長(弟)は10歳。

ちっちゃかったくせに、これほどまでに鮮明に記憶しているなんて、驚嘆するほかありません。

(私はぼーっとしてた)

 

で、問題の屏風です。

父はお客様がみえると、いつもこの屏風を広げて見せていました。

ある時、北方ルネサンスの研究者にお見せしたら、「マニエリスムですなあ」とおっしゃったのが印象的でした。

で、池大雅筆なのか、どうなのか。

 

池大雅が書いた飲中八仙歌屏風は、まず、根津美術館に収蔵されています。

「潤渇を交えたその粘りあるみごとな筆致に、大雅の真骨頂が遺憾なく発揮されている」とあります。

似てますね。

 

また、墨美88号(1959年)には、別の屏風(個人蔵)が紹介されています。

似てますね。

南谷があの屏風を買った時、この屏風が頭にあったのかもしれません。

南谷が細かく比較検討した記録があったはずなのですが、見つかりません。(泣)

 

で、本当に池大雅筆なのでしょうか?

 

 

それともう一つ、煤です。

この京都旅行で行った墨やさんは墨運堂さん。

1964年8月、湯島聖堂で行われたパフォーマンスでは、墨運堂さんが届けてくれた煤が活躍しました。

岡部蒼風先生の手記によると、南谷が手に入れた元住友家愛蔵の筆2本は全長1mあまり、穂は直径約15cmで長さが50cm。

紙は、現場で鳥の子紙を10枚つなぎ、5m×4mにしました。

そして、墨。

上質の液体墨も墨磨り機も、まだなかった時代です。

 

次は墨汁だ。

1ぺんにバケツ1ぱいぐらい吸い込んでしまう、ウワバミのような筆だ。

磨ってなどではとうてい及びもつかない。

といって墨汁を使うとあとの筆のしまつが大へんである。

いろいろ考えたあげく、松煙とボンドでこしらえることにする。

大きなポリバケツ2コ、松煙20袋、ボンド大缶2ツ、大ボール1コを用意し、経験豊かな森田子龍が作りはじめる。

これにもコツがある。

南谷はそれだけでは気に入らないと、大鍋に1ぱいショウフ糊をこしらえて来て、ドカドカとまぜる。

 

右の南谷は筆1本ですが、左の森田子龍先生は、なんと2本使っていらっしゃいます!

 

このときに書いた作品は、2016年に香港のM+美術館が買い上げて、ていねいな表具をしてくださいました。

 

イタリックの部分は比田井和子のつぶやきです。