比田井小葩(1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

 

5月25日は小葩の命日なので、1965年の小径会の作品を紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仲間や自分の弟子たちと共に発表されたものです。

いろはの作品こそ古墨の配合による軌跡を浮き上がらせる作品ですが、自分だけこれを使うのはずるいとでも思ったのでしょうか、通常の墨を使って大作を何枚もかきあげています。

様々な印象の作品ですが、たっぷりとした文字で楽しんでいるようで、ほっとするような気がします。

 

弟子たちには、先生の真似をすることは良い作品を作ることとは違うということを教えていたので、皆のびのびと自分の才能を開花して、意欲にあふれた、あたたかくすばらしい展覧会になったのでした。

 

 

1960年に初めて車が来るまでは、旅行は電車でした。

毎年行ったのが湯河原の、島崎藤村が執筆したという石碑のあった伊東屋旅館で、その昔皇族のお泊りになったという部屋でしたが、温泉街にはあまり小さな子供の喜ぶ施設は無く、帳場に相談すると、山の上のほうまで上がると眺めがよいとのことで、ハイヤーを呼んでもらって行きました。

それが大きな黒いアメ車だったので、その何年後かにオレンジロードという有料道路になるずっと前のガタゴト道を、はずみながらくねくねと上がり、海まで見渡せる眺めの良いところで一休みで帰ってきましたが、その印象が良かったのか、祖母はその後シートの堅いベンツではなく、アメ車を選ぶようになったのです。

で、子供たちにとって本当のお楽しみだったのは、温泉ではなく行き帰りの駅弁なんかで、行きは横浜駅からサンドイッチ、シュウマイ弁当にアイスを食べ、その入れ物を束ねて座席の下に入れるということが、何か背徳感があってぞくぞくしました。

帰りには、湯河原から小田原あたりまで待ってあじの押しずしを買い、冷凍ミカンも買いましたが、横浜までわりとすぐなので、冷凍が解けることもなく、いつも家まで持ち越しだったような。

しかも、すごくすっぱいのでした。

一度ミカン狩りに行きましたが、あの頃の小田原のみかんは、どれもすっぱかったですよね、、

お口直しに、湯河原温泉街にあるキビ餅は甘くて、今でも湯河原を通るときには、買ってしまいます。

 

 

比田井小葩が他界したのは1972年、58歳でした。

日本橋三越での比田井天来生誕百年展の準備に奔走し、開会レセプションの会場で倒れ、そのまま目覚めなかったのです。

当時の皇太子妃殿下美智子さま(現上皇后陛下)が展覧会をご鑑賞くださり、南谷不在の理由をご質問になって、小葩の死をお知りになりました。

 

告別式に飾られた写真、左は美智子さまから賜った芍薬です。

 

生花の御礼として、美智子妃殿下に献上した作品です。

川端茅舎の句「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」。

 

 

イタリックは比田井和子のつぶやきです。