比田井小葩(1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

 

てまりうた

かなしきこと

を うつくしく

 

1964年から65年頃の小葩の小品で、銀紙に書かれた前回の、「おいてなほ」と同じ時に制作されたものです。

この頃の大作は太い筆でたっぷりとしたものでしたが、手のひらに乗るような小品は、情緒たっぷりに、でも甘くなりすぎずにうまくまとめていますね。

 

 

1960年、小学二年頃の横浜は、まだ都市整備が始まる前で、山下公園は広い芝生に点々と木が植えられ、間を散策路があったくらいで、噴水も氷川丸もそして大勢の観光客もありませんでした。

海に向かって左には大さん橋があり、その向こうには赤レンガ倉庫が遠くに見えましたが、今の「みなとみらい」が海の上にできるなんて、想像もつきませんでした。

その赤レンガ倉庫は、まだ外国貨物の荷揚げ倉庫として現役でしたから、蒸気機関車がそこまで乗り入れていました。

 

その頃は私たち姉弟の家の前が元町公園なので、みんなの遊び場になっていました。

 

ある時、近所の年上のともだち達が道路に絵を書くロウ石があそこにイッパイあるのだと言い出し、自転車で探検に行くことになりました。

港が休みの日曜日に、5人位で30分位かかって(子供自転車なので大冒険でした)赤レンガ倉庫の線路に着くと、なんと! 本当に枕木の間とかに、壊れた大理石のかけらが大量に落ちていたのです。

みんなポケットいっぱいにかけらを拾い集めると意気揚々と引き上げてきたのですが、一人が、子供がひとかかえもあるような大きなのを荷台に括り付けて帰ったので、怒られるぞーとみんなで脅かしましたが、なんとか無事だったようでした。

 

その後は道路に大きな絵を書いたり、けんけんぱの丸を書いたりしましたが、ふんだんにあるとかえってつまらないもので、そのうちみんなあきてしまいました。

 

年月は流れ、そんなこともすっかり忘れてしまったある時、いきなりあの赤レンガ倉庫がテレビでながれたのです。

 

そうです、一回目のあぶない刑事のエンドロールで赤レンガ倉庫のわざと古びた映像の中を走るタカとユージの二人を見て、思わずすっかり忘れていた大理石がよみがえってしまいました。

 

その後何年もたって今の様なきれいな観光地と化した赤レンガ倉庫の横を通るたびに、うーん、僕も年をとったなーと、複雑な気持ちになります。

 

 

 

今回の小葩の作品「てまりうた かなしきことをうつくしく」(高浜虚子)は、銀色の紙に書かれています。

残されているのはモノクロ写真だけ、しかも真っ黒。

画像が不鮮明なこと、お許しください。(レタッチすると背景のニュアンスがあらくなる)

 

さてさて、今回登場するのは赤レンガ倉庫、しかもローセキを拾いに行くお話です。

なんだか映画「スタンド・バイ・ミー」みたいですね。

(探しに行ったのがローセキでよかったこと)

 

ちなみに私は行っておりません。

(自転車で遠出なんて嫌いだった)

 

それにしても、隊長から原稿が送られてくるたび、今回は何が暴露されているのかヒヤヒヤものです。

 

あどけない顔をしていますが、何をやらかすか、わかったもんじゃありません。

後ろにいるのは伯母(母の弟の妻)。

家族のために、美味しいお料理を作ってくれました。

 

イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。