比田井小葩(1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

かたまつて

うすきひかりの

すみれかな

(日本女流代表ミニ書展)

 

渡辺水巴のうたです。

 

以前にも紹介させていただきましたが、以前東京画廊で南谷、小葩展をやった時のパンフレット作成時に家にあった大きい方(120センチ位・すぐ上の写真)の解説に日本女流ミニ展1965年とあったのを、銀紙に書いた方だと訂正しました。

おかげで写真でしか残っていない、「おいてなお」「てまりうた」の二点が同時期のものだったことがわかりました。

 

ところが美津江姉がもう一つあるわよと、南谷からもらって家で飾っていたものを持ってきてくれたのです。

 

下の作品がそれです。

作品と印のバランスを見てみると、一番上に出したミニ展と同じくらいの大きさなので、ミニ展の作品が手札サイズなのがよくわかります。

そして、「おいてなお」と、「てまりうた」の方は、色紙サイズでしょうか。

かたまっての三点、このおおきいものも小さいものも、とてもいいなと思います。

 

元町の家から坂を上って少し歩くと、港の見える丘公園がありますが、1960年当時は、草ぼうぼうの丘でした。

姉とあと何人かで探検に行ったことがありましたが、ぼうぼうの崖近く、草の間に大きな穴があいていました。

危ないからそんなところに行ってはいけないと母に怒られました。

聞くと、戦時中に砲台があって、兵士が沢山いたそうです。

1945年5月29日に横浜大空襲があり、焼夷弾が沢山落とされて、元町の家になんと!不発弾の子爆弾が落ちてきたそうで、屋根に落ちたそれはシュウシュウ煙をあげだしたのだそうで、母は二階の物干しから屋根に出て、雑巾でそれをつかむと、隣の公園の方へ、えいっと投げたら燃えだしたので私が家を守ったと言って、ほらあれと指さす銅の屋根には確かに丸く焦げた跡がありました。

それは、何十年ものあいだ残されていました。

そのあと横浜中が火事になり、家の周りにも火の手が迫って来た時に兵隊さんが沢山、山から下りてきて燃えている周りの家を壊してくれたらしいですが、砲台にいた兵隊たちが、外国航路の船長さんの家を守れとの上官の命令で、たすけてくれたらしいです。

 

豪快な母の思い出と言えば、小学二年生の学外写生会で山下公園で絵を描いていた時に、ただならぬ気配によく見てみると向こうで、さあみなさんおやつよーとあの給食で見るような大きなやかんを2つ持った母が、紙コップに温かいミルクティーを入れながら配っていました。

先生たちは驚いていましたが、一番喜んでいたようにみえました。

60人分なんだから大変だったでしょうね。

 

 

「港の見える丘公園」は、そもそも「港の見える丘」でした。

(確かに草ぼうぼうだった)

豪華客船が着いたというニュースを聞き、叔父と一緒に草むらに座り、観光客が降りてくるのを見物したものです。

ミニチュアのような光景を、今も思い出します。

 

小学校二年生の写生会でのミルクティーは、私のときは、母と祖母が持ってきてくれたと思います。

寒かったので、みんなとても喜んでいました。

みんなにごちそうする母のこのやり方は、そのまま弟(隊長)が受け継ぎました。

 

不発弾の撤去はしないだろーな。

 

イタリックは比田井和子のつぶやきです。