新刊「比田井南谷‐線の芸術家(髙橋進著)」が、無事発行の運びとなりました。

 

著者、ムー教授(髙橋進)と私は、学習院大学哲学科の同級生でした。

ムー教授(まだ教授ではなかったけど)は西洋哲学、私は美学美術史。

修士課程に入り、いっしょに飲み歩くメンバー4名が結成され、目白駅周辺で飲んでは終電で横浜の実家に帰り、父や弟もいっしょになって、終夜大議論となったのでありました。

 

そして結婚したのは1978年。

ムー教授は博士課程を修了して哲学科の助手となり、私は父がやっていた書学院出版部に勤務。

近くに住んでくれたので感謝していましたが、勤務場所が実家なのだから、それはたいへん。

呑み始めちゃったら、いつ帰ってくるかわかりませんからね。

 

そういう危機的時期を乗り越え、ムー教授は別の大学の教授となり、私は雄山閣出版に入社し、さらに天来書院を立ち上げ、ムー教授は定年となり、比田井南谷研究に没頭することとなったのでした。

 

 

この本の執筆は、ほぼ4年前から始まりました。

南谷が残した膨大な資料や書簡類、関連の書籍がリビングに散乱し、悲惨なありさまでしたが、なんとか先が見えてきたある日。

ムー教授がこう言いました。

南谷が「電のヴァリエーション」を書いた場所へ行こうと思う。

ええっ? 何その意表をついたものすごい提案!

 

もちろん私に異論などありません。

すぐさま私たちは信州安曇野へと旅立ちました。

 

この旅行記は書籍発行後、「特別寄稿」に公開されましたので、読んでくださった方もいらっしゃると思います。

ここから前衛書が始まった

ムー教授らしい緻密で格調高い旅行記ではありますが、まるで飲まず食わずではありませんか!

悲しい。

なので、裏バージョンを書くことにしました。

名付けて「安曇野に三回行った」。

 

比田井南谷の回想によると、最初の前衛書「電のヴァリエーション」は、長野県に疎開中に書かれました(1945年敗戦後)。

場所を突き止めるために有効なのは手紙です。

ここから前衛書が始まった〉には、末弟比田井徹からの書簡が掲載されていますが、ここでは手島右卿先生のお手紙を紹介しましょう。

美しい表書き、さすが手島先生! (封筒裏の「巍」は右卿先生の本名)

宛先は、長野県南安曇郡三田村田多井原屋敷御内 比田井漸様(「漸」は南谷の本名)。

番地も何もなく「原屋敷」!

大きなお屋敷だったに違いない。

今も存在しているのでしょうか?

 

 

安曇野を訪ねる旅その1(2023年6月15日)

どうしたって、旅の始まりはこのカット。

かんぱーい。

立川から特急あずさに乗って、いよいよ「原屋敷」を訪ねます。

 

南豊科駅に着きました。

(このあたりに行けば見当がつくとムー教授はふんでいたらしい)。

田多井公民館に行くよ。

おー。

 

誰もいないね。

 

公民館の裏手の田んぼ。

南谷はこういう風景を見てたんだ。。。。。

 

夜。

 

翌日は、あの有名な大王わさび園へ。

 

山菜そばに、葉わさびが乗っていて、美味、

 

松本の時計博物館へ。

ここ、おもしろかったけど、なんのために行ったのか、よくわからなかった。

知りたい方は「ここから前衛書が始まった」をご覧ください。

 

帰りの特急あずさ。

つまり、一回目の旅では「原屋敷」が見つからなかったのです。。。。。

詳細は「ここから前衛書が始まった」をご覧ください。

 

このままではおさまらない!

 

 

安曇野を訪ねる旅その2(2024年3月28日)

 

 

今回も立川から特急あずさです。

ホームで買ったので、ハイボールはアルコール度数が低いやつで、しかも小っさな350mg缶(涙)。

でもね、そんな不運(っていうか)もなんのその。

実は、前回の旅の後、状況は急展開したのです。

佐久市の方に「原屋敷」はどこか知りたいとお話したところ、八方に手を尽くして見つけ出してくださったのです。

 

ムー教授がさっそく原屋敷(お名前は原さんではない)にお手紙を書いたら、さっそくお電話がありました。

亡くなったお祖父ちゃんから「比田井」という名前を聞いたことがあります。

そして、お話を聞かせてくださることになったのです。

だから、うきうきの私たち。

 

おお、まぎれもしない「原屋敷」!

 

屋敷門にはすごい彫刻が!

広いお屋敷です。

それもそのはず、村長さんを4期も勤められた名門でした。

 

通された客間にあったのは、な、なんと、天来が書いた扁額です。

甲子とあるので、大正13年。

どうやら、疎開が決まる前から、比田井家と原屋敷はおつきあいがあったのではないかと思いました。

 

枯山水のお庭です。

南谷が逗留していた当時は水があったそうな。

疎開というには立派すぎるお屋敷です。

 

この景色を見ながら「電のヴァリエーション」を書いたのか・・・・・。

 

「ゴールデンウィークの時期には、シャクナゲが見事ですよ」とのお話。

 

そして、ゴールデンウィークも近づいたある日、うかがいたいとお電話しました。

そうしたら、「今満開ですよ」。

た、たいへんだ。

切符、とれるかな?

 

 

安曇野を訪ねる旅その3(2024年4月16日)

今回も、立川から特急あずさです。

車窓から見ると、のどかな景色の中に桜が点在しています。

安曇野に行くの三回目だなあ、と感慨深く。

 

 

松本駅から見える山々。

中央の一番高い山が常念岳です。

まだ雪が残っています。

この風景が、新しい書を生み出したんですね。

 

さっそく、原屋敷に向かいます。

 

色鮮やかなしゃくなげが咲き誇っています。

間に合ってよかった♫

 

お庭中、しゃくなげ!

こんなおうちに住みたい♡

 

お話をうかがった方は、夫婦養子として原屋敷を継がれたそう。

ご主人は他界され、お子さん、お孫さんとお屋敷を守っていらっしゃいます。

ご実家はすぐお隣のお屋敷です。

見事な芝桜。

 

可愛らしいカタクリの花。

花を愛する優しい方々が、伝統を守っていらっしゃるのですね。

 

安曇野の桜はほぼ終わっていましたが、疎水べりの桜は今が見頃。

いい時期に行きました!

 

松本に戻り、黄昏時。

さー、飲もう。

それにしても、松本の信号は不可解です。

縦も斜めもぜんぶ赤信号。

 

偶然見つけたお店に入りました。

 

日本酒とこごみのおひたし。

信州はこうでなくちゃ。

 

お刺身はどれも美味でしたが、信州サーモンとホタルイカが抜群です。

 

岩牡蠣は新鮮でぷりぷり。

 

具沢山のオムレツ。

 

山菜の天ぷらです。

ふきのとうやコシアブラ、さつまいももある。。。。。

 

キンキの塩焼き。

 

わらびのおひたしにはかつおぶしがたっぷり。

翌日は

 

ここです。

うなぎとお寿司。

 

昼間っから何ですが、つめた~い生酒がたまりません。

 

旅の最後を飾る豪華刺盛り。

 

そして、うなぎのお寿司。

 

わお、長ーい投稿になってしまいました。

もうちょっと書きたい。

 

 

南谷は前衛書だけが知られていますが、そもそも彼は「臨書」を学書の基本とした比田井天来の次男です。

当時、どんな書を書いていたのでしょう?

 

左は顔真卿書「顔勤礼碑」、右は貫名菘翁が杜詩の五律詩を書いた作品の臨書です。

右の菘翁の臨書には、辛巳(1941年)と書かれていますから、電のヴァリエーションを書く4年前(南谷は29歳)。

臨書の鬼! だったのです。

 

そして、戦争が激しくなり、敗戦。

書をなんとかしなくては、と悩む日々。

 

疎開先の炬燵の中で奇怪な線や点を書いては反故の山をつくり、人が来ると急いでしまい込むという自信のなさに私は悩んでいた。(南谷の回想より)

 

そして、突然 天来のことばがひらめいた!

行き詰まったら古に還れ。

 

そしてできた作品が

これです。

心線作品第一・電のヴァリエーション(1945年・千葉市美術館蔵)。

 

最後に

以上は、比田井和子が書いた裏バージョンです。

正しいバージョン〈ここから前衛書が始まった〉。を、ぜひお読みください。

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