比田井小葩(1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

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「つねな」「らむう」「ばらくずる」は、1965年の第一回創玄展に出品されたものです。

 

 

 

 

「いろは」は、例の古墨の調合による筆の動きを強調した大作ですが、「ばらくずる」の方は、同じ紙を使ってそのあまり浸み込みにくいことを逆手にとって、打ち付けるように書いた力強い線が印象的です。

 

美術通信の昭和40310日号の、伊福部隆彦氏による評で大変なおほめにあずかっています。

「それよりも一番注目させられたのは比田井小葩の仕事であつた。これほど近代的感覚をもつた仮名は当代稀れと言つていい。しかもそれがしつかりと伝統技をふまえているところが力強い。墨書と古典漢字美にも通じているのだから驚くのである。」

 

父、南谷は横浜精版という精密製版の会社を経営していましたが、その社員といろんな協力会社の皆さんとで毎年社員旅行に行っていました。

箱根ホテルと、湯河原温泉にある島崎藤村が執筆していたという伊東屋旅館によく行きましたが、みんな家族も一緒に参加だったので、宴会で大暴れになることもなく、なごやかな旅行でした。

ある年に、伊東屋旅館に行った時の事、宴会が終わった後に宴会場に防水紙を一面に張り巡らし、大きな紙とだいぶ太い筆を準備すると、父と母がみんなに好きなように前衛書を書いていいよと言ったのです。

父の展覧会のたびに見に行っていた社員のみんなの喜んだこと!

次の朝早く、おそるおそる見に行ってみると、宴会場に何枚もの大傑作が一面に広げられていました。

帰りには、丸められた紙を持って嬉しそうなみんなの顔がありました。

 

 

 

いろはシリーズの中で、落ち着いた「つねな」と動きのある「らむう」。

自然に書き分けているのが小葩らしいと思います。

 

さて、東京高等工芸学校印刷工芸科で印刷技術と写真製版を学んだ南谷は、山枡康子(小葩)と結婚した翌年、1949年に「横浜精版研究所」を設立しました。

創立当初はなかなかうまくいかずに苦労しましたが、やがて軌道に乗り、小さな工場を建設するまでになったのです。

 

この写真は1960〜62年頃の社員旅行ではないかと思います。

左端が小葩で後ろが隊長(動いちゃだめだってば)、前が私(太っていた)。

小葩の右、藤田さんは工場を建てた大工さんだと思う。

旅館で前衛作品を書いたと書かれていますが、みんな社長(南谷)の書に興味しんしんでした。

社長を囲んでお酒を飲むと、芸術論をたたかわせていたような記憶があります。(ほんとか?)

 

釣り堀です。

名所めぐりもせずに釣りをするって、観光に興味のない南谷の好みにあわせたに違いない

 

最後のイタリック部分は比田井和子のつぶやきです。