比田井小葩(本名康子・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

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1963年、小葩は第15回毎日書道展に「ぬるを」「こごめ花」の二点を出品しました。

 

同年の第18回日書展には「わかよ」を、出品しています。

作品は174.5X87.7という大変大きなものでしたが、この時代にこんな大きなかな3文字というのは、誰もやってなかったのではないでしょうか。

かな大字書の先駆けかもしれませんね。

南谷の発明した古墨の使い方を、南谷より先に自由自在に駆使しているように感じます。

一年に二枚だけしか書かずに、その年の自分を発表することで比田井小葩の変遷を表すなんて、ちょっと粋ですね。

 

昔、中華街を南京町と大人たちは呼んでいました。

街には色々普通の商店、肉屋とか書店、八百屋とか写真屋なんかの間に中華料理店があり、その中に何軒か大きな店があるくらいで、今のようにぐちゃぐちゃにあるわけではなかったのです。

いつも行くのは華勝楼という大きな店で、廊下に緋鯉の泳ぐ池があり、橋を渡って部屋に行くので姉弟は、そこで鯉を見るのが楽しみでした。

まず前菜盛り合わせが出て、海鮮炒めとか海老揚げ、鳥とナッツの紙包み揚げとか、昔はカウユーと呼んでいた東坡肉や、ふかひれ姿煮とか色々出た後で、メインイベントが大きな鯉の丸揚げ甘酢あんかけでした。

周りがカリカリに揚げてあって甘酸っぱい餡がおいしかったのですが、ある時取り分けてくれていた店の人が、この大きな頭全部食べられるんだよと言ったのです。

中に小さなかたい骨があるから、それだけは残してねと言うのを聞いた母が、食べてみると言うと、自分の取り皿から大幅にはみ出た鯉の頭をカリカリとかじりだしました。

大分長い間コリコリかじっていたあとで、硬い骨あった!との声にみんなが見てみると、なんと頭を全部たいらげていたのでした。

サクサクして美味しかったらしいのですが、何事にも興味があることはまずやってみるという性格が、こんなところにも出ていたんだなと思いました。

ちなみに、背びれ、むなびれ、尾びれのサクサクしたところは、全部ボクのものでした。

 

 

比田井小葩の「いろは」シリーズも「わかよ」まできました。

「いろは」を毎年三文字ずつ書いて発表するというのは珍しいと思いますが、どこまで行くのか、はらはらどきどき。

 

南京町の華勝楼にはよく行きました。

りっぱな建物ですべて個室。

コース料理の合間を縫って、二人で館内を走り回りましたっけ。

 

お箸の正しい持ち方を覚える前だ!(Xになっている)

ちなみにネットの情報によると、2016年にはお店を閉めたということです。

 

イタリックは比田井和子のつぶやきです。