比田井小葩(本名康子・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

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小葩の生涯をかけた三文字シリーズがいよいよはじまりました。

1959年に南谷が、アメリカに旅立ってしまったせいか1959年から1961年初めまでの作品が見当たりません。

そして、帰ってきた1961年に最初のいろはが発表されたのですが、その後は1962年にこの2点がそれぞれ第14回毎日書道展と第17回日書展に出品されました。

最初のにほへは、今までの墨を使いながら、うまくにじみで表情をつくっていますが、とちりではじめて、例の立体的にも思える南谷の墨を使い、大作を仕上げています。

何か書き終わった後で、よし!とほほ笑んでいるような温かい気がします。

 

そして同じ年の天来遺業展で「穹蒼はそのみ手のわざをしめす」聖書の詩編をその墨で書き上げると、その後の代表作などを次々に発表していくのです。

 

お正月は、祖母を筆頭に、同居している三家族が揃っておせちを長ーい机で食べました。

祖母の生まれた紀州に倣って白味噌のお雑煮でした。

おせちの材料は母が銀座三越にでかけていつも紙袋2つに満杯でしたが、ある年に、帰ってくるなり、かちぐりを忘れた!と言うとまた買いにいってしまったのが驚きでした。

父は日本にいるときは、お正月だけはトランプとかで遊んでくれましたが、子供相手に大変むきになるので、皆にあきれられていました。

三日になるといきなり、さあ!はじめるか!の声で年賀状作りが始まるのですが、気に入ったはがきや、版木、ばれんなど昔はなかなか三が日に開いている店を手分けして探すのが大変で、何で去年に買っておかなかったの?の声がしきりでしたが、書くかどうか決めてなかったからしょうがない。の言葉に、皆あきらめて出かけるのでした。

そして、正月から部屋いっぱいに乾かされた、干支が刷り上がった葉書に一枚ずつ、頌春と書いて三が日は終わり、仕事始めの及川小汀女史による宛名書きの後に、無事に年賀状がポストに投函され、めでたしめでたしでした。

 

 

 

比田井南谷が作った年賀状は、年代によっていろいろなパターンがありました。

上は、干支の動物を木版に彫って淡墨で刷り上げ、その下に一筆で木簡風の長方形を作って「頌春」と書いたシリーズです。

父は思いつくのが遅くて、みんな振り回されてたいへんでしたが、どんなものが出来上がるのか、とても楽しみでした。

この年賀状シリーズも、動物が可愛らしくて、好評でした。

 

上の写真は、後ろの蘇鉄にわらが巻かれているから真冬、しかも私が着物なので、多分お正月です。

昭和のお正月です。。。。。

 

それにしても、「とちり」と書かれた作品が一点あっても、なんじゃ、これは? ですよね。

「いろは連作の3」とかなんとか書いておいてくれないと。。。。。

 

イタリックは比田井和子のつぶやきです。