比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。
独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。
「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。
比田井小葩オフィシャルサイトはこちら。
とめどなや
かぜが
れうらんと
ながるる
北原白秋の詩集、真珠沙の永日礼賛の中の一文です。
長い詩の中から、上手い切り取り方をして心象風景を描くことが上手ですね。
書体も毎回、その風景に呼応するかのように、変幻自在です。
書くことが喜びであるのが、じんわりと伝わってきて、温かい気持ちになります。
1960年代には小学生だったので、夏休みの葉山の別荘でのひと月あまりは、とても楽しいものでした。
ただ父は滅多に来ることはなく、姉弟、祖母、叔父叔母、従弟妹たち、それと横浜に行ったり来たりや、展覧会などで大忙しの母とで、ご飯はほとんど叔母が作ってくれました。
朝、宿題をいやいや済ませて11時頃に海岸に着くと昼まで泳ぎ、お昼のおにぎりを食べて、また4時頃まで泳ぐ。
帰ってお風呂に入り、夕ご飯を食べて、また海岸へ。
夜店で金魚すくいをして、時々菊水亭で、最初から全体にシロップが混ざったかき氷のモモコを、ビールとサザエの壺焼きなんかを食べるいろんな大人たちの間にまぎれながら食べ、そんなのが、飽きずにずっとくりかえされていました。
でも、お盆休みの頃から台風が発生しだし、波が大きくなってきて土用波と呼んでいましたが、これがくらげを引き寄せるので、海は、あんどんくらげだらけになり、さされるのでやたらとアンモニアをぬられました。
そのうちに、かつおのえぼしが出現したという情報が出ると、泳ぐのは禁止され、砂で遊ぶしかなくなりました。
そんなこんなを過ぎて、僕が一番楽しみだったのは、9月1日から4日までの海岸でした。
みんな学校が始まるので海岸はがらんとして、急に海が透き通って、足元には魚が泳ぐのが見え、昨日までは人が足でかき混ぜて濁っていたんだということが、よくわかりました。
学校が私学だったので、6日が始業式だったおかげで、とても幸せな気持ちでの夏最後の海水浴を楽しんだ小学生の思い出です。
今回の小葩の作品は、夫、南谷が作った「不思議な墨」で書いています。
「書くことが喜びである」とありますが、心のリズムが響いてくるような作品です。
子供の頃の葉山森戸海岸の写真がありました。
当時の海岸は本当に混んでいました。
もう70年近く前です!
お昼ご飯を食べた後、30分は砂遊び。
①棒倒し 砂の山に刺した棒を倒したら負け。
②砂でビックサイズのお団子を作る。大人が有利。
③砂山に道を作り、上から土団子をころがす。
④穴を掘って大人を埋める。
人が少なくなった夏の終わりの私の思い出は、夜光虫です。
寄せては返す波のリズムにあわせて、青く煌めく無数の夜光虫。
それはそれは美しい光景でした。
泳いでいると刺すんですけどね。
イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。