「隊長、私(詩)的に書を語る」は、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母、比田井小葩を回想しながら、小葩の書を語るシリーズです。
今回からは「時々南谷」を追加して、南谷の文字作品も紹介します。
南谷の命日が10月15日なので、貴重な資料を特別にご紹介させていただきます。
あまり出さないようにと言われていましたが、今回だけ、、、
南谷が天来に添削してもらったものです。
1と2(上段)は充分うまいのに、容赦なく朱でばっさり!
でも気持ちは分かりますが、情け容赦無しなお直し、、、
で、よく見ると、3と4(下段)は朱の筆が違うので、なにくそと臨書に励んだ後の様ですね。
線が明らかによくなって、なんか天来を彷彿させるようになってきています。
あまり容赦なく直されるので、もうすこし丸が欲しいと言ったら天来が、あ、そうだなと言ってやっと丸を付けてくれるようになったそうですが、この親子すさまじく書で通じ合っていたのですね。
臨書の勉強方法の意味を教えられているようです。
母が亡くなってから、父と私たち姉弟や、書学院出版部のみんなとよく宴会がありましたが、そんな時に関東大震災の話を聞かされました。
父は小学生で鎌倉郵便局の裏手の小町という所に天来や兄弟たちと住んでいて、段葛のある若宮小路を渡り、鎌倉駅の向こうの御成小学校に通っていたようですが、その日は家にいて、ばあやに火鉢で塩じゃけを焼いてもらっていたそうです。
突然地面の下からどおーんという突き上げが三回あって、体が浮いたそうです。
あとは激しい横揺れが来て電気の傘が天井でガラガラ回ると、ちぎれてバーンと飛び、ばあやは外に向かって走り、引き戻されること三回目に外に転げだし、父は畳で座って寄りかかっていた箪笥のまま、、
気が付くと見慣れない風景で、家が崩れて屋根裏にいて、寄りかかっていた箪笥はそのままで、それに天井の梁が乗っかっていたそうです。
揺れる方向が良くて箪笥が倒れなかったのか、天井の梁が先に落ちて倒れるのを防いだのか、不思議です。
書学院の上野さんは、五回どーんといったとか言っていました。
そのあとに来た津波が届かないくらいの少し高台だったのか、妙本寺の方は少し高台なのでその近くに住んでいたのでしょうか。
ずいぶん後になって、父の病院の診察日の帰りに、探しに行ってみようということになって行ってみましたが、震災の後に区画が変わってしまったのか、まったく探せませんでした。
で、よく天来のところに、北海道から大きなタル詰めで塩をした色んな魚が送られてきてすごくおいしかったんだ、と言っていましたから魚のヒラキは好きで、毎朝アジの開きを食べていましたが、塩じゃけは絶対に食べませんでした。
地震のせいだったのですね。
カテゴリーに「時々南谷」が追加されたのにお気づきでしょうか?
比田井南谷と小葩の息子、比田井義信(私の弟です)が、母、小葩の作品を語るシリーズですが、どうやらこれからは小葩だけではなく、南谷のことも話題にのぼるようです。
今回登場するのは、南谷がおそらく中学生の頃の半紙臨書。
多分この写真の頃です。
というのは、『墨美』87号(1959年6月号)に、上田桑鳩先生の「比田井南谷を眺めて」という文章があり、そこにこんなふうに書かれているのです。
南谷君を知ったのは、昭和4年の春、私が代々木南山谷の比田井天来先生の書学院の一角にあった小住宅に移り住んだ時であった。
その頃は、南谷君は旧制の中学の3〜4年生でもあったろうか。
長兄の厚君、弟の詢君などと、写真をやったり、バイオリンをいじくったり、また南洋土人の吹く土笛などを作ったりするおとなしそうな少年であった。
〈中略〉
さて、南谷くんの書的な閃きを初めて見たのは、書学院内の生活一ヶ年を経た頃であったろう。
それは顔真卿の竹山連句の臨書であったが、太太しく濃墨で書かれていながら、細やかな感情が筆端に表われ、その内容の豊かなことは、少年の作品とも思えぬほどであった。
その当時私は臨書に凝っていた時代だったので、原本の受取り方と解釈の特異的であることに、異常なまでに関心を持って驚いたのである。
当時田代秋鶴が、顔法を得意として誇っていたのであったが、感覚的には、はるかにこの方が真に迫っていると思って、天来先生に話したところ、先生もにっこりされたことが、今以て記憶に残っている。
南谷くんがいっているように、書は既にこの頃には天来先生や小琴先生から学んでいたのであろう。
昭和4年は1929年、南谷は17歳です。
ブログ冒頭の蘭亭序臨書にはまだ稚拙さが見えるので、これより数年前のものでしょう。
で、関東大震災の話で塩ジャケを焼いていたのは「ばあや」と書いてありますが、私の記憶では「ねえや」です・・・・・。
どっちだ?
イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。