比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

比田井小葩オフィシャルサイトはこちら

 

 

 

八月の 山の昼

明かるみに 雨そそぎ

遠雷の 音をきく

 

三木露風の「晴間」のなかの最初の部分です。

八月のだけほんの少し間をあけるところなんか、ふっと心の中の静かな空気が感じられますよね。

 

これを見ると、箱根ホテルが思い出されます。

 

1962年に箱根新道が開通してから箱根へ行きやすくなったので、度々箱根ホテルに行きました。

1962年当時はフォードタウナスという、ちょっと初代セリカに似たスタイルのアメリカ車で、1963年からはマーキュリーコメットでしたから、ぐんぐん登りましたが、小さい国産車やトラック、バスなんかはオーバーヒートして、あちこちでボンネットをあけていました。

今思うと当時の箱根ホテルは、ヨーロッパ風のリゾートホテルのようで、外人が沢山いたように思います。

 

天井の高い食堂では、ステーキより魚推しで、まだ芦ノ湖にしか放流されていなかったブラックバスがお勧めですと一応控えめにすすめてから、ニジマスのムニエルがおいしいですと言うと、皆ニジマスのムニエルを頼むということが毎年繰り返されました。

部屋はいつも湖に突き出たはなれの三部屋を使うのですが、父は柔らかいベッドが嫌いで、必ずエキストラベッドに好んで寝ていました。

ホテルは朝7時頃からしか玄関のカギが開かないので、はなれの窓によじ登って、湖沿いに建っているはなれのふちをつたって、庭に出て桟橋からこっそりと釣りをするのが楽しみでしたが、子供の釣りでは小さなやまべ、おいかわ、とかしか釣れませんでした。

小学校5年のころには、姉と一緒にホテルで手漕ぎボートを借りて、初めてのルアー釣りに挑戦しましたが、桟橋に帰って来た時に姉が下りようとして手をかけたままスーッとボートが離れ、ボチャンと落ちました。

立つと膝のちょっと上だったので無事でしたが、帰りの服がなくなってしまいました。

なんか漫画のようですよね。

 

 

 

「八月のだけほんの少し間をあけるところなんか、ふっと心の中の静かな空気が感じられますよね。」

ほんとですね。

「心の中の静かな空気」という表現、すごい感性だと思います。

 

今回の思い出は箱根ホテル。

ホテルのホームページに当時の建物が写っているので載せたい! 

という弟のたっての希望で、ホテルにメールしてみました。

そうしたら許可してくださり(許可願いを出しました)、ネットよりずっと鮮明な画像を送ってくださいました。

感激です。(また行きたくなっちゃう)

 

富士屋ホテルの歴史はこちら

今回お借りした写真は1951年に増築された新館です。

 

そして鮮明に思い出すのが、ボートから落ちたこと。

大好きだった花柄のワンピースがびしょびしょになったこと。

あれ以降、落ちたことはありません(きっぱり!)。

 

イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。