〔特別寄稿〕

ここから前衛書が始まった

『心線』が生まれた場所を探して

髙橋 進

比田井南谷(本名、漸)の書道史上初めての「文字を離れた書」、心線作品第1『電のヴァリエーション』は、当人の十年後の回想「心線の生れるまで」( 1955年『書道講座7』二玄社)に成立の経緯が述べられている。しかし、その詳細はそれほど明瞭ではない。これまでの紹介や解説などでも本人の回想以上には触れられていない。

今回、南谷についての単著を上梓するにあたっても、霧に包まれたような視界の悪さに困った状態が続いていた。そこで、成立のきっかけとなった「疎開先」を訪ねようと決意した。

 

1.迫りくる軍靴の足音を聴きながら

南谷は1934年東京高等工芸学校卒業後、東京三宅坂の陸軍参謀本部陸地測量部に就職し、陸地測量・地図作製の技術を学び、その後、修技部(教育部)教官となり、学生や後輩たちに測量技術等を教えていた。

 

左の建物は陸地測量部、右は参謀本部(陸軍省)

父天来の「書学院」建設は1930年に東京市外代々幡町388番地(1932年に東京市渋谷区代々木山谷町388番地に改名)の地に完成し、国内各地から天来を慕い、自由な書研究を求めた俊英たちが集まった。

 

代々木書学院

南谷も「書庫」に入り浸って、自由に古法帖の臨書と研究を行っていた。その後、1936年に「鎌倉書学院」が建長寺塔頭の「華蔵院」に建立され、主要な古法帖や拓本の蔵書とともに、家族はここで生活した。 

 

1937年南谷は両親と親族らの勧めで、天来の生地の近傍、南佐久郡大澤村の木内醸造の娘、木内きく子と結納を交わし祝言を挙げた。その2年後、1939年1月に父天来が死去し、南谷は天来の事業を受け継ぎ、古法帖の管理や出版、雑誌「書勢」等の発行に務めた。その年の父の死の直前、元旦に南谷ときく子は婚姻届けを提出。3月に長男、健が生まれた。南谷の勤務先は東京だったので、家族は渋谷区栄通に居を構えた。

「南谷」の号は 1935年に天来から受領したもので、代々木書学院が代々木山谷の南に位置していたので「南と谷」から由来していると思われる。この代々木書学院は、1939年天来の死をもって12月末に譲渡されて使命を終えた。書学院の事業は「鎌倉書学院」で継続した。

 

2.戦火を逃れて 

1941年12月8日(アメリカでは7日)、日本は真珠湾攻撃をもって日米開戦となり、当日、英米に対して宣戦布告を行い、日本は第二次世界大戦下に突入した。戦火が苛烈となる中、1944年4月本土空襲に備えて、三宅坂の陸地測量部の機能は杉並区和泉町の明治大学予科に移された。7月のサイパン島の陥落で日本本土はB29爆撃機による激しい空襲を被るようになった。大都会では学童の集団疎開が始まり、竹槍訓練や勤労動員、防空訓練も日常となった。母小琴は長野の天来の生家に疎開した。1945年3月10日の東京大空襲(下町大空襲)では、焼夷弾により東京の三分の一以上が焼失し、罹災者は百万人を超えた。5月、陸地測量部全機関が長野県松本市郊外へ疎開した。その直後、5月25日の空襲(山の手大空襲)で、死者3651名、中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・麻布・芝・渋谷区・世田谷区・青山通り方面が焼失した。国会議事堂周辺・東京駅・皇居も被災し明治宮殿が焼失した。

陸地測量部の総員は千名を超えていたが、分散疎開して長野県松本市周辺の波田村・梓・塩尻・温明などの各国民学校が作業場に当てられた。波田国民学校に陸地測量部本部が置かれ、教育部は明盛村温明の国民学校に配置された。しかし、疎開先に向けた機材や資料を積載した貨車が、停車中の新宿駅で空襲にあって焼失。陸地測量部の活動はほぼ機能することはなかった(「陸地測量部から陸地調査所へ」元国土地理院長 金窪敏知『地図Vol.52 No.1』)。

 

南谷はこの5月の陸地測量部の疎開とともに、長野県に疎開した。疎開先は「長野県南安曇郡三田村田多井原屋敷」。この住所は母の小琴、また末弟の徹からの南谷宛の手紙によって判明している。

 

比田井天来の4男、比田井徹から比田井漸(南谷)宛の書簡

 

この住所の「原屋敷」宅に南谷は妻きく子と暮らした。きく子はもともと蒲柳の質で病気がちであったので、6歳の健は大澤村のきく子の実家に預けられた。南谷は病身の妻を気遣いながら臨書を続ける日々を過ごした。小琴は佐久から木内家の健の様子や食糧事情などをきく子に手紙で知らせている。

安曇野地区にはもともと芸術家が多く暮らしており、関東周辺から頼って疎開してくる画家たちの芸術家村も散在していた。次姉の千鶴子も角浩と夫婦で南谷の疎開先の近くに暮らしていたようである(千鶴子宛の小琴の手紙より)。

8月15日にポツダム宣言の受諾と降伏決定の玉音放送が流れた。多大な犠牲を払って日本は無条件降伏し、第二次世界大戦は終結した(正式の降伏調印は9月2日)。

この年の初冬から冬にかけて南谷は試行錯誤の中から『電のヴァリエーション』を生み出した。

 

史上初の前衛書「心線作品第一・電のヴァリエーション」(1945年)

  

3.空襲の記憶と「代々木書学院」の行方

戦争末期および敗戦直後にかけての状況については不分明のことが待ち受けていた。三宅坂の「陸地測量部」と「参謀本部」は5月25日の大空襲で焼失した。現在、参謀本部と陸地測量部の跡地には、1960年に国会議事堂の前庭に「三権分立の時計塔」が置かれた。「憲政の神様 尾崎行雄」の業績を称えて建設された尾崎行雄記念館を前身とする憲政記念館もここにある。陸地測量部の記憶としては、「日本水準原点」が残されている。

 

陸地測量部跡に残る日本水準原点

1936年に建立された「鎌倉書学院」は空襲にあわず建物と書庫は1980年代以降も存続していた。しかし、元「代々木書学院」の建物は5月25日の山の手大空襲で焼失したと予想していたが、今回調査した限り空襲の被害は免れていた。書生として天来の身近にいた比田井雄太郎(後に田中鹿川翁)の記録でも、東京空襲時に東京を離れていて書学院についての記述は見当たらない。代々木山谷の書学院は童謡「春の小川」の歌碑(1964年建立)の近くにあったと、比田井雄太郎の家族らは聞いている。歌碑は小田急線参宮橋—代々木八幡駅間の線路沿いにある。現在の参宮橋駅から代々木公園の入口の方へ向かった場所、戦後の駐留軍のワシントンハイツのゲートに近く、ハイツの返還後は代々木オリンピック選手村と変わり、現在は代々木青年の森公園の入口近辺と思われる。代々木参宮橋に住んでいた美術評論家の田宮文平は、住居から見える前方にあったはずだと述べたことがある。ともあれ、現在、書学院の跡地は不明である。

4.安曇野の「屋敷林」 

南谷の疎開地、「南安曇郡三田村田多井」の住所は三田村の田多井地区を表す。明治期に小田多井村・田多井村・田尻村の地区が改称されて三田村となった。しかし、1955年の昭和の大合併によって三田村と小倉村の一部が合併され堀金村となり、さらに平成の大合併によって平成17年安曇野市堀金三田となった。安曇野市堀金三田はJR大糸線の中萱駅と豊科駅の西部に位置し、北アルプスの山巓を望み、中央に常念岳が聳え、雪解け水からなる湧水に恵まれ、これを利用するため江戸時代から水路(堰)が縦横につくられた豊かな田園地帯である。冬季以外には強い南風が吹き、冬季には北風に悩まされる安曇野では家屋の周囲に樹高10mにもなる針葉樹(ヒノキ/スギ/マツなど)をめぐらした屋敷林が点在している。

 

安曇野市豊科郷土博物館の『ふるさと安曇野きのう きょう あしたNo.18 2019. 2.9 安曇野の屋敷林』によれば、屋敷林は庭園と一体になり、その家の格式をあらわすシンボル的な存在であって、単に防風のためだけでなく、その家の存在の社会的価値を示すものだとされる。「原屋敷」もそのような屋敷林と考えられ、旧田多井村に所在していると予想した。安曇野市の調査では、各屋敷林は「○○家屋敷林」として居住者名で登録されている。「長野県元気づくり支援金」の補助を受けた「屋敷林と歴史的まちなみプロジェクト」の2年半の活動報告をまとめた冊子「安曇野の屋敷林」(2011年3月に発行)によると、「安曇野屋敷林サポーター」の報告や「屋敷林フォーラム」を開催し、屋敷林の現状や景観保護のために熱い活動を行っている。しかし、これらを参照しても、「原屋敷」は見当たらない。「屋敷林マップ」でも田多井地区は報告されていない。

 5.安曇野での捜索

そこで、どうしても現地を訪ねて、「原屋敷」を特定することが急務だと決意した。2023年6月15日に立川駅から「特急あずさ」に乗車して松本に向かい、松本から大糸線の「南豊科」を目指した。地図上では「堀金三田」の田多井地区には「南豊科」が最寄り駅だと考えた。しかし、南豊科駅に着くと無人駅だと分かり、しかも駅前にタクシー待機やタクシー会社もなかった。田多井地区の中心は「田多井公民館」あたりと見当づけていたので「公民館」までタクシーで向かう予定であった。2件ほどのタクシー会社は「豊科」にあり、電話でタクシーを呼び待つことにした。南豊科の改札を出ると、西方に常念岳が雲間に見えていた。

 

田多井公民館の裏手の風景

「公民館」は閉じていた。催しなどがない時は、開館していないようだった。公民館の前の山の方、また裏なども回ってみたが、それらしい建物はなかった。少し北の方に、枝垂れ桜で有名な観音堂や、その奥に大きな枝垂れ桜の人気スポットがあるので、その周辺の風格のある邸宅に「原屋敷」がないか、表札を頼りにして歩き回った。屋敷林が「○○家屋敷林」と紹介されていたので、「原家」の屋敷林と思い込んでいた。「原」という表札はなかった。建物の裏地の墓地に入って、墓碑に「原家」がないか、探してみた。

 

田多井の堰の用水路は、清流が勢いよく流れていた。空は梅雨模様でどんよりと曇っていた。雨が降り出してきたので、またタクシーを呼び、豊科に戻る途中でドライバーに尋ねてみた。「原屋敷」は知らないが豊科の安曇野市役所がこの地区の管轄で詳しい情報が得られるのではないか、とのことで市役所本庁舎に向かった。受付・案内係に「戦中・戦後の田多井村の地図等について調査したい」と尋ねたら、2階の「市民活動サポートセンター」に向かうように案内された。大規模な素晴らしい建物で期待しながら向かうと、丁寧に対応してくれた。「原屋敷」を探す詳しい事情を述べると、3階の「文化課/観光課」に電話をつなぎ、直接相談をするように手配してくれた。特に「文化課」の担当者に事情を話すと、「年代が古いので資料があるか、調査する」との応答で後ほど携帯電話にかけるとの返事をいただいた。期待に心弾みながら、その日は松本に宿泊した。翌日、朝目覚めて文化課の担当者から留守電があったことに気が付き、急いで電話した。結果は「資料が見つからず分からない」とのことであった。落胆したが、もう一つ松本で確認したかった市内の「時計博物館」に向かった。

 「時計博物館」

「松本市時計博物館」は2002(平成14)年に開館。松本市に寄贈された本田親蔵(ちかぞう)氏の、生涯をかけて収集した貴重な和洋の古時計コレクションをもとに、他の市民たちの時計コレクションの寄贈も含めた600点以上を収蔵している。

 

松本市時計博物館

この博物館の最大の特徴は、時計をできる限り動いている状態で展示していることである。松本市に残る「陸地測量部」の遺産が、この「時計博物館」に展示されている、山の手大空襲で燃え落ちた「三宅坂の本部庁舎」正面で時を刻んでいた大時計である。

 

松本市時計博物館に展示されている陸軍陸地測量部の時計

時計はイギリスのラッセル社製で全高197cm、文字盤39cm、振り子の長さ1m、重りに水銀が使われた堂々としたものである。松本疎開の際、波多国民学校に運ばれ、終戦後国民学校に寄贈されたものであった。敗戦後79年も経って現在も時を刻みつけている。

 

6.「原屋敷」の発見と訪問

「原屋敷」の場所を特定できなかったが、安曇野市を訪ねて南谷が疎開していた周囲の環境が感じられるような気がした。遠くに雪を戴いた北アルプス連峰が聳え、周囲は広大で平坦な田畑が広がり、急流の水路が絶え間なく水音を立てている。強風が高い檜や杉の枝を揺らすが屋内は静かで穏やかである。戦乱や空襲の戦禍を逃れ、妻の看病や食糧事情に苦労しながらも、静かな日常生活が取り戻せていたと感じられた。

「原屋敷」については、長野県佐久市の知人に問い合わせもしていた。佐久市を中心とした広範なネットワークを持つ知人は、該当地域の知り合いに「原屋敷」という邸宅がないか、依頼していた。2024年3月、ようやく「原屋敷」という屋号を持つ番地が伝えられた。しかし、「原屋敷」は「原家」ではなく違った居住者名であった。急いで居住者名(姓しか分からなかった)宛に、数日後に訪ねたいと事情を説明して手紙を書いた。すぐに、いつでも来てくださいとの電話を戴いた。2024年3月28日、急遽、前年と同じように松本に向かった。今回は豊科まで大糸線に乗り、豊科からタクシーで現地に向かった。

「原屋敷」の番地は昨年訪れた「田多井公民館」からは、そう遠くなかった。ただ、昨年は北の方角と予想していたのが誤りであった。また、「原」という居住者名と思い込み、その名の邸宅と表札を探し回ったのが間違いであった。「原屋敷」が特定できたことで、もう一つ確認したいことが出てきた。1946年9月に南谷の妻きく子が病死した。その時、お悔やみと同時に南谷に依頼していた件を催促する地元の人の手紙が見つかった。それは南谷が疎開してまもなく、「頌徳碑」を建立するので「碑銘」を書いてほしいという依頼であった。その碑が見つかれば、若き日の南谷の作品として業績に加えられるかもしれない。また疎開時の南谷の活動の状況が見えてくるのではないか、という期待もあった。

 



「頌徳碑」の「碑銘」を書いてほしいという依頼状

訪れた「原屋敷」は広大な敷地を持ち、立派な屋敷門を備え、2階と屋根裏部屋をもつ大きな母屋があった。

 

屋敷門の全景

母屋は建て替えがなされて疎開当時のままではなかったが、基本的な間取り等は変わっていないという。母屋の1階の庭園に面した部屋(現在は2間となっているが、当時は1間の広い部屋)で、南谷はきく子と生活していた。

 

原屋敷の屋敷門

長屋門風の屋敷門には、見事な黒漆喰の地に白い松と二羽の鶴の「こて細工」の彫刻がなされ、白壁で囲まれている。北の妻には丸に橘の家紋、左右にうねる白竜の朱色のひげや鱗など職人芸の丁寧な「こて細工」である。門の両側は米や穀物の貯蔵や農機具等の物置となっている。

 

母屋と門とを繋ぐ通路も武家屋敷風の構えを備えていたが、現在は途中までとなっていた。庭園には松の木が数本聳え、また横に伸びた松が年月を表している。また、背面には空を目指した杉の樹が直立し、まさに屋敷林を形成している。

 

母屋から庭を眺める

母屋に案内され、南谷の生活した部屋に通されると、まず目についたのは庭に面した長押の上に飾られた天来の扁額であった。

 

比田井天来書 扁額

書かれた干支と雅号から大正末期の作品である。

当主夫人からも天来の書いたものがあると聞いていると言って取り出したものを見ると、それらは明らかに別人のものであるので、この扁額こそが聞いていたものに違いないと話した。南谷が贈ったものでなく、それ以前から「原屋敷」と天来の繋がりがあったと思われた。「原屋敷」の「原」は、家名ではなく「原っぱ」の「原」であって、家の屋号であり、安曇野には屋敷名としては「蔵屋敷」とか、花の名の付いた屋敷もあると教えられた。

いろいろと話を伺い、南谷が快く受け入れられていたことが分かった。さらに長姉ゆり子が近くに疎開していたのではないかとゆり子の名前を持ち出すとその名前には憶えがあるとのことであった。

7.南谷の書碑を探して

確認したかったもう一つは、南谷の書いた碑について思い当たるものがないか、という点であった。その手紙は東筑摩郡波田村の住民からの手紙で、以前に依頼した前会長の中野氏の頌徳碑の碑文の催促の内容であった。建設委員の方から督促があるので至急お願いしたいということであった。当主夫人からは、そういう碑については思い当たるものがない。波多村は梓川の向こう岸で、よく分からない、とのことであった。

 

翌日、波多に向かうことにした。松本市波多は松本駅から上高地線の波多駅が中心であるが、地図で確認すると波多神社や田村堂付近に石碑等が多く存在する渕東に向かうことに決めた。渕東は無人駅でアニメの「渕東なぎさ」をイメージキャラクターに用いて若者の関心を喚起していた。しかし、他の乗客は誰も降車しなかった。駅前は広々とした田畑が広がっているが、田植え前で農作業する住民も見当たらなかった。農道を過ぎて小高い丘を登っていくと雪解け水のため、車の通行は禁止されていた。車止めのガードをよけてさらに登っていくと波多神社と田村堂の前に出た。

 

田村堂

田村堂は室町後期の造営とされ、国の重要文化財に指定されていて坂上田村麻呂を祀っているとされる。手前に阿吽の一対の仁王像が護る仁王門があり、その奥に上波多阿弥陀堂が鎮座し、その右手に田村堂がある。古びた石碑がいくつもあり、碑面が磨滅して読み取れないものも多くあった。終戦時と思われる石碑は見当たらなかった。

 

渕東駅ホーム

渕東駅に戻ると、一人の高齢者が電車を待っていた。どこから来たのか尋ねられ、川崎の方と答えると、若い頃川崎の方で仕事をしていたと話が弾んだ。もう80歳を超えたと述べ、また若い頃の川崎の仕事のことを話す。記憶をこじ開けてしまったのか、繰り返し同じ話をする。松本方面行の電車が来て、乗り込むといつも座る席なのか、老人は離れた席に座った。諦めて松本に帰るつもりであったが、近づいて尋ねてみた。波多近辺に「中野という人の頌徳碑」の石碑を知らないかと聞くと、「中野とは、中野傳壽翁のことか、中野傳壽翁はこの辺では有名人だ。波多駅の坂道を降りたところの農協の前に石碑がある。ほら、あそこだ」と、窓の外を指さした。ちょうど波多駅に着くところで、慌てて、礼を述べて電車を飛び降りた。

 

坂道を走るように下って、『松本ハイランド農業協同組合波多支所』という表示のある建物の広い駐車場に踏み行った。駐車場の入り口近くに坂道の方に向いて、台座の石の上に2mを超す石碑が立っている。

 

中野傳壽頌徳碑

立派な石碑で碑面は、彫が深く「中野傳壽頌徳碑 伯爵有馬賴寧󠄀書」とある。裏面は、中野傳壽が波多村での産業組合活動を活性化し、さらに保證責任組合へと進展させて、日本農村建設の理想を追求した精神の業績を讃えて頌徳するという内容であった。建立主 保證責任波多信用購買販売利用組合とあり、建設委員35名の姓名と外組合員1080名と刻まれている。なかなか見事な石碑で、昭和18年12月の日付がある。書を書いたとされる有馬賴寧󠄀(よりやす)伯爵(1884—1957)は、有馬家の第15代当主で日本の政治家、農政学者、篤志家である。日本中央競馬会にて行われるGⅠ競走「有馬記念」の名前は有馬頼寧に由来する。夜間学校の開校、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐などの社会活動に広く活躍し、農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。

 

 この石碑には「南谷書」とは刻されていない。碑面の「中野傳壽頌徳碑 伯爵有馬賴寧󠄀書」の書は、部分的には、似通ったところがあるが全体的に南谷の書と断定できない。別物の可能性が高いと思われる。年代的には昭和18年12月に建設が決まって、昭和20年終戦後、南谷に依頼があったと想定される。しかし、21年9月に妻きく子がなくなり、その中での催促に応えることができなかったのではないか、と推測される。

 

8.「原屋敷」で「心線」が生れた

「原屋敷」の周囲の環境について、写真がもう少し必要なために4月19日再々訪した。

 

田多井の用水路と堤の桜

今回は原屋敷周辺の環境や庭の真っ盛りの石楠花の花や北アルプスの風景を中心に撮影した。

 

原屋敷の杉と石楠花の花

当主夫人の義姉の方も同席し、当時の様子がより詳しく判明した。南谷の長姉のゆり子が南谷と同じく原屋敷の2階に居住し、きく子の看病や南谷の食事等の世話をしていることが分かった。南谷は受け入れてくれた「原屋敷」の方々や母小琴の配慮を受けたゆり子らの支えによって、自己自身の取るべき道とこれからの日本の行く末とを見定めようと煩悶しながらも考え続けた。

 

彼方に常念岳の頂を望む

心が揺れ続く中でも、彼方に望む常念岳は雪を戴いても新緑の季節でも変わらぬ姿で孤高に聳えている。

困難な時代の中でも杉は空を目指して直立し、湧水の急流は滾々と流れを止めない。その生活の中で、南谷は漸く、答えを見出す。それが天来の言葉をきっかけとした「心線作品第一・電のヴァリエーション」であった。