比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。
独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。
「隊長、私(詩)的に書を語る(時々南谷)」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書(時々南谷)を語ります。
比田井小葩オフィシャルサイトはこちら。
光は花の
中の花である
この作品は、1966年第10回随鵬現代書展に出品されたものですが、
ひかりは花の中
のはなで
ある
も、同年に書かれたものだと思います。というのは、もう一つの
ひかりにうたれ
て 花がうま
れた
が同じ1966年の第10回随鵬現代書展に出品されているので、ガラッと違う二点を出品する方がおもしろいかなと考えたのでしょうか。
この頃から、細い本来のかなの要素を取り入れだしているのですが、あの不思議な墨を使うことでみんなの興味が形の方に行きがちなのを、本来の線の動きの力を感じてほしいと思ったのかもしれません。
だって、感動はむしろこの細い線の方に余計にあるのではないでしょうか。
父がいなかったので、多分1965年だったかと思いますが、ある日、母が中華街にご飯食べに行くよと、僕に言いました。
姉がいなかったので、学校の旅行か何かだったのだと思います。
二人で、いつも行く華勝楼の二階のお座敷の個室に行くと、初老の(当時はそう見えた)小柄な男性が待っていました。
三人でコースの料理を食べながら、母とその人は、懐かしそうにいろんな書家たちの話や、最近の父や母のことなどを話していましたが、最後のデザートが運ばれてくる頃に、もう一度ちゃんとやりたいので、ぜひ手伝っていただきたいと母が強く話すと、ようございます!ぜひお手伝いさせていただきます!とその人が返し、二人は両手を強く握り合って何か嬉しそうにしていました。
そんなことも忘れた何年かたったある日、父が、書学院出版部をもう一度始めるから、この人が手伝ってくれる。
と紹介された人を見ると、あの時の初老の人がにこにこ立っていました。
何と天来の書生で、初代書学院出版部も手伝っていた、上野利友さんだったのです。経理や事務全般をこなし、父が二代目書学院出版部を閉めるまで、毎日通ってくれました。
のちに時々みんなで宴会などがあった時には、若いときに父と上野さんと酔っぱらって、鎌倉八幡宮の石段にあおむけに寝ころんだら星がきれいだったなんて話を二人でしていましたが、その二人を天来の治療によく来ていた整体師の人がかついで帰ったなんて話は、驚きでした。
この整体師の人は中山先生といい、もうずいぶん年をとっても、父の治療で横浜にも来てくれて、僕もぎっくり腰を何度も直していただきました。
「書学院」は1916年に比田井天来が創設した書道研究機関ですが、天来没後、比田井南谷がこれを継承し、1969年に横浜で「書学院出版部」を再開しました。
ここで経理事務一切を担当したのが上野年友(としとも)さんです。
私は1977年に入社しましたが、本の作り方や原価計算のやり方など、上野さんから出版の基本を教わりました。
小さい会社だったので、宣伝や販売なども含め、すべてを経験できたのは幸運でした。
(宣伝用チラシの作り方は伏見冲敬先生から教わりました。)
当時の写真を紹介したいのですが、まだだめ、との隊長命令で延期です。
どんな内容を紹介(暴露?)してくれるのかなあ。
イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。