比田井小葩(しょうは・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。
独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。
「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。
比田井小葩オフィシャルサイトはこちら。
落日の光、森の彼方に
あふれ、むらがれる緑
の色、心を刺す。
三木露風の「夏の日のたそがれ」の最初の部分です。
彼がキリスト者であったせいなのか、作品がよく登場します。
八月の山の昼に比べて、夏の夕暮れが少しざわざわしたこころもちなのでしょうか。
落日とか光、森、むらがれる緑などをわざと少しだけ濃くして印象を支配するのがうまいですね。
1960年頃の横浜元町の商店街は、今の歩道のところまで商店が建っていて、相互通行だったのでした。
おまけに店がそれぞれ縁台を出して商品を並べていましたから、よけながら歩くのがたいへんでした。
ちゃんと地元に必要な店もたくさんあって、八百屋が三軒、肉屋に電気屋、金魚屋、おもちゃ屋、金物屋、和菓子屋、食堂など、普通の商店街の中に洋服屋と家具屋が点在していました。
一丁目の家からまっすぐに通りに出て左に三軒目あたりに、なんでもありの元町食堂がありました。
どんぶり、中華、洋食などありましたが、夏に気温が30度を超えると、工場のみんなにかき氷が出前されました。
大人たちは氷小豆でしたが、子供達にはいちごで、あとはレモンか透明な氷すいくらいしかなかったのです。
当時のガラスの器は、模様の入った浅くて今の半分くらいの大きさでした。
上にシロップはかかってなくて、大人たちはまず両手で上からぎゅっと押さえてから、おもむろにぺっちゃんこの氷を食べ始めるのでした。
夏休みが始まるまでしか横浜にいなかったので、何回かしか巡り合いませんでしたが、今と違って30度を超えるのはそんなになかったように思います。
なにしろ夜は蚊帳をつってクーラーなどなかったのに、明け方におなかを出して寝ていると、寒いくらいでしたよね。
なんだかあの頃が懐かしいです。
鮮烈な光景をうたった三木露風の詩を、淡々と書きあげた作品です。
完成度を求める現代の書とは逆の境地を目指したもの。
こういう素朴さが今もあってよいのではないかと私は思います。
さてさて、1960年当時、氷は貴重でした。
だからできるだけ量を増やすために薄く薄く削りました。
まるで飛んでいってしまいそうにはかない氷の破片。
シロップも下に敷くだけで、上にかけたりしません。
そのまま食べるとテーブルの上にいっぱいこぼれるので、上から押さえて食べやすくしました。
これこそが、日本の夏!
口の中が真っ赤になるいちごシロップもすごかった!
イタリック部分は比田井和子のつぶやきです。