今回ご紹介する比田井天来の書論は、1919(大正8)年に『書勢』(大同書会発行)に掲載された「書の巧拙」です。
この年、天来は己の理想に向けて大きな一歩を踏み出しました。
かねてより計画中だった「書学院建設趣旨書」を発表したのです。
「書の巧拙」をご理解いただくために、先に趣旨書の部分を抜粋してみます。
書は昔から東洋で尊重されている。優れた書は、作者の心が芸術的に美化されて点画の中で活躍し、見る人の心と共鳴して高遠な妙境に導き、俗世間から超越できる。
さらにこれを学べば、心は霊妙な暗示を得、いかに偉大な感化を受けることであろう。
一時期書道が衰退した理由は二つある。
一つは人間がこざかしく誠意に欠けたこと。
もう一つは細かい流派に分かれ、書の大海を忘れてしまったことだ。
書の大海とは歴代の古典名品である。
ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。
今こそ従来の弊害を打破し、書道研究の一大革新をはかる時だ。
誰でも歴代大家の劇蹟を閲覧でき、自由に古典を選んで学べる研究所として書学院建設の急務を絶叫するものである。
「書学院建設趣旨書」より
そしてその2年後、天来壮年の大著「学書筌蹄(がくしょせんてい)」の刊行が開始されました。
天来が中国の古典名品を12点選び、それぞれの冒頭から最後までを臨書したものです。
「臨書」とは、現代の先生のお手本ではなく、古典をお手本にして書くこと。
多彩な古典を臨書することによって、ここまで多彩な表現が可能になるのです。
一つの流儀にこだわって、いつでも同じような書を書くのは「巧みな書」ではなく「俗な書」だ。
では、天来はどのような書を書くべきだと考えたのでしょうか?
書の巧拙
さて、いかなる書がじょうずであるかということは、いたるところで聞かれる問題である。
これは衆人の聞かんことを希望している点に相違ないが、はなはだ無理な質問である。
水はいかに冷たいか、湯はいかに熱いかということを説明せよと言われると同じことである。
冷暖自知ということがあって、飲んでみるのが一番手っ取り早い。
書もまた学んでみるのがてっとり早いのである。
しかし老婆心をもって説明してみると、じょうずな書には種類がたくさんある。
細いがよいとも、太いがよいとも、形の上から断定することはできぬ。
また強い書には強い長所があり、優しい書には優しい長所がある。
一方面に長所のあるものは、長所そのものがただちに一種のいや味となり、または長所の反対の方面になにか欠点を生じやすいものである。
古来大家のたくさんできないのも無理はないのである。
たとえば点画の太い字は雄大なる様子と豊かなる気分は表われやすいが、短所を挙げると窮屈になり、鈍漫になり、俗けを生じやすく、濁りを帯びやすきものである。
ゆえに太い書であって濁りけもなく、俗けもなく、勁(つよ)くて寛(ゆる)やかであれば上乗であるが、ここがもっとも難しいのである。
また徐(しず)かに書いた書は沈着もあり、旨味(うまみ)もあり、変化も出しやすく癖も出てこぬものであるが、筆力の鈍る点とまのぬけるおそれがある。
また細い書は上品に書ける。
清く書ける。
いや味が比較的出てこぬ。
書としてはしごく無難であるが、短所を挙げると繊弱になりやすく、淋しく見えやすく、とかくに細工になりたがるものである。
ゆえに細い書には非常なる筆力と雄大なる気分とを加味したものでなければならぬ。
これをようするに、もっとも一致しがたい両極端を一家の書中に具備したものはたしかに善書であるといいえらるるのである。
まず善書の条件として二、三の例をあげてみると、筆勢強くして脈絡貫通し、閑雅の気象あるもの、運筆徐(ゆる)やかにして勢いあり、弛(ゆる)みなきもの、運筆飛ぶがごとくにして浮滑の弊なく、変化多端なるもの、優美にして沈着かつ勁抜なるもの、真率にして意を経ざるがごとく、深く味わえば筆々新意を出し、一点一画ゆるがせにせざるもの、結字寛博にして点画あい顧眄(こべん)し、字々あい暎帯して散漫のきらいなきもの、結体緊密にして悠揚逼(せま)らず、和気靄然たるもの、布字斉然として点画の間、奇致あるもの、大小錯落、配置自然のごとく、目に映じて騒がしからず、一点滑稽の気なきもの、墨気滴(したた)るがごとくにして、剰(じょう)肉なく、鋒芒俊抜にして小細工ならざるもの、率然筆を下してなかばは墨なく、筆力雄健、気魄豪邁(ごうまい)、心血淋漓(りんり)として灑(そそ)ぎ、渇すれどもなお潤(うるお)うがごときもの、一見平凡にして再視異趣を観(み)る、再三再四奇姿横生してついに凡ならず、いよいよ観ていよいよ飽(あ)かざるものなどである。
このごろあるところで書の審査を頼まれて、巧拙雑多の書をたくさん見るうちに感じたことがあるから、俗書と拙書と悪書のこともついでに書いてみよう。
俗書を大別すると三種類になる。
第一は筆意のない書である。
筆意のない書とは、楷書でいえば点画に変化がなく四角四面で、算木(さんぎ。数をかぞえる竹の棒)で組み立ったような字をいうのである。
古人も「平直あい似て状(じょう)算木のごとく、上下方整にして前後斉平なる、これはこれ書ならず。ただその点画をえるのみ」というている。
第二はいく枚書いても判で押したように万遍一律で、かつ上(うわ)調子の書をいうのである。
第三は筆力のない陳腐な形と、変化のない陳腐な筆意をいうのであって、徳川時代のお家流とか、清朝人の科挙に応ずるために学ぶ細楷のごときものをいうのである。
第一は書道として無価値なるばかりでなく、実用としても見よいものでない。
第二、第三は実用としてはまず不都合はないというまでのことだ。
拙書とは字をそろえた書きたくも不ぞろいになり、点画をきれいにしたくも醜くなるをいうのである。
拙書は実用としては厄介千万であるが、書道よりみればかえって俗書ほどにくむべきものではない。
なんとなれば拙書は多くは未熟のためで、勉強しだいじょうずになりえらるる書で、俗けのある字をきれいに書く人よりは、書道としてむしろ種がよいぐらいのものである。
中略
書家はそのときの気分をかざりけなく筆意の中に表すということがもっとも大切である。
この気分を表すことがなければ書家はじつに無意味のものであり、書は活版(活字印刷)と同様なもので、ここが書家と工書人との区別である。
さて、気分を表すには習気(しゅうき)というものを去らなければならぬ。
習気とは習慣性、すなわち筆癖(ふでくせ)である。
書道として研究するには、手性(てしょう)の善悪とか器用不器用とかいうのは小問題で、習気を除くというのが一大難事である。
ゆえに吾輩は、不器用なる者がかえって大家になりえられる素質が多いと言うのである。
悪書とは拙書が固まりて一種の習気をなし、拙書にしてかつ俗書を兼ねたもので、書道としてはいやすべからざる痼疾(こしつ)ともいうべきものである。
この病気を治すには、全然自己流の字を書くことを止(や)め、古碑帖をもって自己の癖を去り、いったん子供の境界にいたり、さらに出なおさなければならぬ。
手本によらないで自己流の字のみたくさん書く人は、多くはこの魔導に落つるものである。