11月18日、午後4時から、「美術評論家・田宮文平先生を偲ぶ会」が佐久ホテルで開催されました。
新型コロナウィルスの流行によって三年間延期となり、ようやくの開催です。
開会のことば、献花、黙祷に続き、主催者である佐久市長、栁田清二さんのごあいさつ。
佐久市長に初当選なさったのは39歳のとき(2009年)。
ごあいさつでは、「比田井天来・小琴顕彰 佐久全国臨書展」開催のきっかけをお話しになりました。
詳細はこのブログ後半に出てきますよ。
そして、写真撮影と献杯の後、みなさまにはお食事をしていただきつつ、「田宮文平先生と書の町佐久市」と題してスライド鑑賞会をやりました。
内容をご紹介しましょう。
比田井天来生誕地、長野県佐久市には、文部省が認定した初めての書道専門美術館である「佐久市立(創立は1975年、建設当初は望月町立)天来記念館」があります。
そして、「書の町佐久市」として、近年、さまざまのイベントが行われてきました。
地元のNPO法人未来工房もちづき(理事長は吉川徹さん)のみなさんが実行してきましたが、的確な助言で書壇との連携をとってくださったのは田宮文平先生でした。
まずは、
2005年、比田井天来と小琴、その門下の石碑を彫るために、中国から碑刻家、王建虎さんを招聘しました。
この日に集まった方々です。
下段中央、王建虎さんと吉川さんの間にいらっしゃるのは金子卓義先生。
天来記念館の行事や企画展、そして王建虎さんの招聘まで、中心になって推進してくださいましたが、2006年4月にお亡くなりになりました。
天来自然公園をご覧いただけなかったのはとても残念です。
そして2006年6月、天来生家の裏山に「天来自然公園」が完成しました。
竣工式に駆けつけてくださった長野県知事の田中康夫さん。
後ろに幕がかかった石碑がありますね。
この後、一つ一つ、ご遺族に幕を引いていただきました。
大澤雅休の石碑は、田宮先生と地元の小学生のみなさんにお願いしました。
すべての石碑が姿をあらわしました。
比田井天来・小琴、上田桑鳩、桑原翠邦、金子鷗亭、手嶋右卿、石田栖湖、大澤雅休、比田井南谷の作品を刻した石碑が建っています。
上の写真は、ご挨拶なさる田宮文平先生。
全国からお祝いに集ってくださったみなさん。
前日までの大雨がうそのような、暑い日でした。
そしてここから書道関連のイベントが始まります。
翌2007年「第一回天来祭り」が開催されました。
作品を書いていらっしゃるのは石飛博光先生。
中央上では、比田井天来の三男、比田井洵さんの長男比田井裕さんがリコーダーを、次女仲宗根香子さんがピアノを演奏してくれています。
このときは、作品を書いてほしい方を募集して、その方の前で揮毫していただきました。
書いていらっしゃるのは渡部半溟先生です。
この日は春日温泉かすが荘に宿泊し、夜には「天来が愛した故郷」というテーマでシンポジウムを行いました。
2009年、新しく佐久市長に就任された栁田清二さんをお呼びして、天来自然公園で親睦の集いが開催されました。
そしてここから、臨書展の構想が始まります。
和気あいあいとお酒を酌み交わしていますが、実はこの前に、田宮先生から佐久市主催の臨書展の構想をうかがっていました。
私が感じたのは、「臨書」ということばは書道関係者以外はほとんど知らないし、難しいのではないだろうか。。。。。
でも田宮先生の決意は固かった!
そしてこの懇談会の後、吉川さんが市長さんへ「臨書展」の提案をしたのです。
市長さんは真摯に受け止めてくださり、三年後に「比田井天来・小琴顕彰 佐久全国臨書展」が実現したというわけです。
田宮先生、恐るべし!
上は2010年のスナップ写真です。
NPO法人未来工房もちづきの理事長、吉川徹さんが「天来くん」を持ってお出迎え。
「ようこそ! 天来祭り」は高野澄夫さんです。
田宮先生がちゃっかり写真にはいってる。
で、天来祭りの前に、大切な展覧会があったことを忘れてはいけません。
2010(平成22)年10月2日~12月5日 佐久市新市発足5周年記念の特別企画展として、佐久市近代美術館において「現代書道の父 比田井天来展」が開催されたのです。
私の後ろにある天来の屏風「龍跳」は、後に教科書にも載った天来代表作の一つですが、このとき初めて公の場に展示されました。
このコーナーには最晩年の「老人幅」や「戊寅帖」に掲載された作品を展示しました。
(ほかではなかなか見られない)
入館者は4000人。
新聞にもとりあげていただきました。
同時開催の「第4回天来祭り」でパフォーマンスを披露してくれた望月高校(現在はサテライト校)のみなさん。
左が田宮文平先生、右が佐久市長栁田清二さん。
その右に、石原太流先生のお顔も見えます。
そして、2012年11 月23 日、「第一回比田井天来・小琴顕彰 佐久全国臨書展」が幕を開けました。(夢のよう)
審査員長は田宮文平先生。
第一回ではなんと、全国から3600点余の応募がありました。
その後も毎年3000展を超える数の作品が集まっています。
大正期に古典学書の方法論を体系的に確立したのが比田井天来であった。
師風伝承を否定し、学書が古典によるべきことを明快に示したのである。
特に格調の高い書法を身につけるには、漢字系では唐以前、かな系では平安時代までが好ましいと奨励した。
後代の立派な書もみな、それらを学んだ結果として成立してきたというわけである。
現代の書壇は隆盛を誇っているが、ともすれば公募展制度の中で古典学書の重要性が見失われがちである。
そこで、佐久全国臨書展では数ある臨書展の中でも、唐以前、平安時代までを前提として特色ある臨書展を設定したのである。
(第一回臨書展図録の田宮先生の序文より)
イベントが終わってから、NPO未来工房もちづきの天来自然公園部会のみなさんと反省会。
「書の町佐久市」の発展のため、献身的に努力してくださる地元の方の意見を、田宮先生は本当に大切に考えていらっしゃいました。
天来自然公園で、田宮先生を真ん中に記念撮影。
実は最近、悲しいできごとがありました。
一番右に写っている上野昭久さんは、NPO未来工房もちづきの天来自然公園部長として献身的に活動をしてくださいましたが、無理がたたって11月3日にお亡くなりになったのです。
さて、田宮先生が審査に加わってくださったのは第4回までです。
その後も、当番審査員を決めるときには田宮先生のお宅にうかがい、ご意見に沿って決めていましたが、2019年6月に他界されました。
偲ぶ会では、いろいろな方にスピーチをしていただきました(突然お願いしてすみません)。
毎日新聞学芸部記者の桐山正寿さんは、田宮先生が広い視野をもっていらっしゃったこと、書を美術としての視点から論じられたことを話してくださいました。
また、雑誌「墨」の元編集長である太田文子さんによると、田宮先生が「今後のことはその時代時代の人にまかせればいいんだよ」とおっしゃったとのこと。
田宮先生は若い頃、いくつかの名前で文章を発表していらっしゃいました。
その一つが「寺尾淳」です。
「造形新報」に上の文章を発表されたとき、先生は25歳でした。
若いときから、誠実に書と対峙していらっしゃることがよくわかります。
「評論」なくして書が芸術であるとは言えません。
田宮先生の貴重なお仕事がもっともっと注目され、「書の評論」が今後さらに発展していくことを祈らずにいられません。