比田井小葩(本名康子・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。
独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。
「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。
比田井小葩オフィシャルサイトはこちら。
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
山村暮鳥の「風景 純銀もざいく」の一節目です。
遠くまで、見渡す限りのなのはなですね。
ちょっと楽し気な筆使いでまとめあげられていますが、1957~8年ころでしょうか。
ところがそのすぐあとで、太くて柔らかい筆で、不思議な濃淡とにじみを使った作品を書いています。
同じ時期に、南谷もこの墨と紙の組み合わせの作品をたくさんかいていました。
多分、南谷がこの墨面白いよと言って、それを見た小葩が私も使う!となったのでしょうが、あくまでも文字を捨てない覚悟を感じられますね。
次のヘッセ「春の言葉」
どの子供も知つてゐる
春が何と言つているかを
生きよ 伸びよ 希望を持てよ
愛せよ 喜べよ 新しい芽を吹けよ
では、だんだんとその後の書風が見えてきているようですね。
小さい頃のクリスマスは、なんだかすごいことになっていました。
まず昼頃に母が、目の前の元町公園に出て、みなさーんクリスマスにいらっしゃーい!と大きな声で呼びかけると、近所中の子供たちがワー!っと言いながら入ってきて、まず、聖書のお話とお祈りをすませ、アーメンが終わると、大騒ぎのパーティーが始まり、そのうち頼んでいた手品師のマジックまであり、一大行事でした。
最後に玄関に積んであるプレゼントを、とんちで答えるコーナーがあり、お開きでした。たとえば券に竜宮城と書いてあったら、懐中電灯が当たりで、海中殿堂だってさ、、、
多分、前もって親たちに言ってあったのかな、みんなちょっといい服を着て何となくそわそわしながら遊んでいましたから。
そのあと夜には、ご飯の後で祖母、叔父、叔母などみんなで応接間で、聖書を読みお祈りをしてから、歌えるクリスマスの讃美歌を全部歌いましたが、皆それぞれのパートを歌うので、混声合唱団じょうたいでした。
僕は、変声期まではソプラノだったので一番高い声が自慢でしたが、声変わりして、大分低くなって残念です。
このハモる癖がその後中学で姉が、PPM(ピーター・ポール&マリー)にはまり、夜寝る前に色々なアルバム名を言われて、そのA、B面どちらかを伴奏もなしで全部歌わないと、寝かせてもらえない状態がなかなか面白かったです。
相当長い間やってたから、今でもたぶんできるような気が、、、
小葩が南谷の墨を拝借したらしい、ということは、何回か出てきましたね。
1月4日のシンポジウムの準備をしていたら、その証拠を発見しました。
第四回比田井天来記念前衛書展(1959年)の会場風景です。
左2点が南谷、一番右が小葩。
同じ墨を使っていますが、表現がまったく異なっているのはいかにも小葩らしいと思います。
クリスマスは本当に楽しみでした。
母はおもしろいゲームを作り出すのが上手で、子どもたちの心をつかんでしまうんです。
懐中電灯と海中殿堂。そんなことよく覚えていること!
このときの写真は見つかりませんでしたが、私が幼稚園のとき、先生と同級生を招待したときの写真がみつかりました。
上が幼稚園での本番、下は自宅の応接間です。
お母さんたちも招待した模様。
めちゃくちゃ度が半端じゃありません。
PPM、たしかにハマってました。
なんとなく知的で都会的な感じがしたのかな。
今でもできるような気がするって?
じゃあ、パフいってみようか?
イタリック部分は比田井和子の独り言です。