比田井小葩(本名康子・1914〜1972)は、1948年に比田井南谷と結婚。

独特の抒情的な書風は、書壇でも注目を集めましたが、58歳で急逝しました。

「隊長、私(詩)的に書を語る」は、息子、比田井義信(1953年生まれ・私の弟です)が母を回想しながら、小葩の書を語ります。

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これらの書は、板やキャンバスから紙に移る時期の作品で、1957年頃でしょうか。

言葉の響きを大事にしながら自分の書に反映することを目指して、様々な書体、筆を使っていますが、次の作品の紺碧の空と化すのところ等は、後の小径会の頃からの書風が見え隠れしています。

しかし、このままあの書風にならないのが、小葩のいいところで、次回はあっと驚く変貌を遂げる小葩を紹介します。

お楽しみに。

 

僕たち姉弟は、最初はおとうちゃん、おかあちゃんとよんでいました。

まわりからそう教えられていたのだとおもいますが、何の違和感もありませんでした。

姉が小学校に上がり、最初のお誕生会に呼ばれた時に事件はおこりました。

私立のミッションスクールで、会社社長の子供や老舗の子供たちが通っていたので、その時は建設会社の令嬢のところにお呼ばれしたのでした。

帰ると母が、パーティーでどんなお料理食べたの?と聞くと、姉はチャーハンが卵でくるまれていたの。と言い、母がオムライス?と言うと、違うの!お米がひとつずつ卵で黄色くなっていたの。

母は???でしたが、今はやりの、最初に卵をまぜてから作るやりかたを60年以上前にもうやっていたのでしょうか、すごいですね。

そのあと、姉にちょっとこっちに来なさいと呼ばれ、いい?今日からおかあちゃんを、ママと呼ぶからね!と宣言されたのです。

そして二人で母の前に行くと、大きな声でママ!と叫んで急いで逃げました。

何かパーティーで刺激を受けたのでしょうか。

後で聞いてみると、家の前に住んでいたお父さんが外国人の船長さんの娘とよく遊んでいて、その子がママと呼んでいたらしいのですが、そんな訳で、その後はママに変わりましたが、おとうちゃんは、わりとすぐにアメリカに行ったり来たりを繰り返していたので、そのままになっていました。

おとうさんに変わったのは、父が脳梗塞になって入院した時に、なんて呼びかければいいか困ってからで、それまでは、ちょっととか、あのーとかで、ごまかしていました。

逆に母は、それから15年位で亡くなってしまったので、おかあさんと呼び方が変わることはありませんでした。

 

 

うーん。あんまり知られたくなかったのですが、バラされてしまった。

ママとおとうちゃんね、と、友達にからかわれていました(汗)。

そもそも「ママ」と呼ぶようになったのは、前の家に引っ越してきた「あんこちゃん」の影響です。

お父さんは船乗り(船長さん?)で、いつも留守でした。

いつの間にかいなくなってしまったので、童謡の「赤い靴」みたいだなと思っていました。

今はどうしているのかな。

 

お誕生日会といえば、

こちらは私のお誕生日会。

同じ学年のお友達を呼んだのに、なぜか二学年下の隊長が馴染んでいる!

後ろは母方の祖母と、生まれたばかりの従兄弟です。

 

イタリック部分は比田井和子です。