みやと探す・作品に書きたい四季の言葉
連載
「泉鏡花集」を開くみや
1 美しい私たちの日本
街路樹の葉が色づいて街並みの装いも変わりました。高い空の下、葡萄や石榴が重たそうに実を付け、たわわな柿の実は日に映えています。野原の景色も移りました。コスモスやいろいろの野花のあと、枯れた下草の中に竜胆が咲き、薄が靡いています。初秋までの天候のせいで例年より遅いと言われた紅葉の便りも聞こえはじめました。日本は今美しい秋の中にいます。
近年いっとき「美しい国」という言葉が政治の場にもあらわれました。その理念が具体的な政策と密接な関係で語られなかったために、「美しい国」を掲げる政治家の構想は人には伝わりませんでした。結局のところ、看板の言葉だけが空疎な響きを帯びて浮き、目指すところと現実的な施策について、その賛否は措くとしても、十分に理解もされないまま「美しい国」の構想が中断したことは当事者にとってこの上なく無念なことであったでしょう。「美しい国」はおおむね否定的に受け取られて政治の世界では終わってしまいました。
それでも、日本は美しい国だと思います。私たちにとって今は特に意識しないこの国の姿は、近世近代に初めて日本を訪れた外国人の目には驚異的なものに映っていました。
ロシアの提督プチャーチンに随行して来日したイワン・アレクサンドロビッチ・ゴンチャロフ(1812〜1891)は、幕末の嘉永6年(1853)初めて長崎に入港した時、
「これは何ということだろう。飾ったのだろうか、それとも本物だろうか。
何ということだろう。杉や、その他何と見分けがつかぬ多数の樹木に蔽われ
た遠近の山々が、濃淡様々な緑色を呈して円形劇場のように層々と重なり
合っている。少しも恐ろしいところはない。すべては微笑む自然である。」
『日本渡航記』
と記しています。また、小泉八雲と名乗って日本の小説家になったアイルランド人、ラフカディオ・ハーン(1850〜1904)は、
「西洋では梅や桜が咲いても格別に驚くほどのことではないが、日本にお
いてはそれが全く驚くほどの美の奇跡になる。その美しさは以前にそのこと
についていかほど書物で読んだ人でも、実際に目のあたりにそれを見たら、
口がきけないくらい妖しく美しいのである。」
『東洋における私の第一日』
と述べます。
その「美しさ」の印象は単に自然風景だけのせいではなかったようです。スペイン人のディエス・デル・コラールは、農作業をしている日本人を、「動物であるというよりは、むしろ理性を具えた植物である。」(『アジアの旅』1961)と見たのでした。また同書に次のようにも述べています。
「日本人の生活全体が自然の千変万化の律動のなかに抱かれている。人々は大挙して2月には梅を、4月には桜を、5月には躑躅(ツツジ)に藤、夏は蓮、11月は菊や紅葉を賞(め)づるために都市を捨てるのである。おそらくこの国社会生活のなかにあるであろう厳しさ、難しさにかかわらず、全体の生活は一種のすばらしい芳香に満たされているのである。」
この気候帯にある日本が、豊かな四季の彩りに恵まれていることはもちろんです。しかしそれだけではなかった。ゴンチャロフやデス・コラールの残した記述は、自然の恵みを享受しながら築いてきた日本らしさに、不意にそれに接した人々が驚嘆するような美しいものが、少なくともそれが書かれた頃までは、何かしらはあったという証左でしょう。
知日家で知られたエドワード・ジョージ・サイデンステッカー(1921〜2007)の訃報が伝えられたのはこの夏のことでした。サイデンステッカーは下町の暮らしを愛し、86歳の最期までを泉鏡花ゆかりの湯島に住みました。数々の現代文学のほか、日本の代表的な文化遺産である大部の『源氏物語』を深い古典理解をもって英訳し、世界に紹介してくれました。川端康成がノーベル文学賞を受賞したときに、一切外国語のできない川端に同行してストックホルムの授賞式に臨み、川端の記念講演「美しい日本の私」を英語通訳したのがサイデンステッカーです。
そのサイデンステッカーとともに日本通を知られた人に、現在も活躍しているドナルド・キーン(1922〜)がいます。この著作に『果てしなく美しい日本』(これはもともと三種類の著作と講演とを併せて出版する時に付けられた題名です)とあるのも、その「美しさ」は総じて見れば伝統的な日本の精神を指したものでした。
日本人が長い歴史の中で培ってきた習俗は、それは見方によってはよいばかりではありますまいが、見方によっては侮りがたく優れたものでもあり、自然と調和したその精神風土は、この世の美しさを生み出す土壌であったと、日本人の私たちが気づかなければなりません。
2 唱歌の秋
春秋はとかく詩歌には恵まれていますが、秋は懐かしいメロディーで思い出される唱歌も豊富です。
早い頃、明治の時代の唱歌には賛美歌をはじめとする外国の曲を借りてそれに詩を乗せたものが少なくありません。たとえば、「夕空晴れて秋風ふく」の歌い出しで思い出される「故郷の空」は、「螢の光」などとも同様にスコットランド民謡の曲を借りています。「旅愁」、これも聞けばあああの歌と思い出される歌でしょう。
更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思ひに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 郷里[さと]の家路
更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思ひに ひとりなやむ
旅愁 詩 犬童球渓 『中等教育唱歌集』明治40年
この歌も曲はアメリカ人のオードウエィによるもの。原詩は「Dreaming of home and mother」です。
明治の頃の唱歌に賛美歌の曲が付いていることには、当時の熱心なキリスト教布教活動が密接に関係しています。
日本には独自の文化があったにもかかわらず、キリスト教信者がほとんどいない非キリスト教国であったために、欧米諸国は未開の国と理解し、憐れむべき国として啓蒙しようと働きました。今日の目から見れば、日本自身も、工業技術においての目立った後れを単純にわが国の絶対的な劣等と思いこみ、素直にすべて欧米に倣おうとしたかの感があります。江戸時代に潜んでいたわずかな隠れキリスト教徒が、弱者の立場から現実世界の権力を否定して絶対神を求めたのとは異なり、明治時代に積極的にキリスト教に帰依したのは、文化を学んで国を興そうとする、むしろ社会の上層部でした。戦前のまだ特権階級が多く子女を送っていた頃の女子学習院の卒業生になんとキリスト教家庭が多いことかと驚いたことがあります。
ヨーロッパに較べればさほどの階層社会ではないとはいっても、国会議員の大方が二世三世である現状を見ればわかるように、明治の上流のかなりの割合はその後も日本社会の中枢にあり、特に文化的には大きな影響力を及ぼす位置にあり続けて来ました。しかし八百万の神のまします日本の風土は、オリンポスの暢気さに通じるところはあっても、排他的偏狭な一神教とは本来相容れないはずのものでした。ゴンチャロフの記した「少しも恐ろしいところはない。すべては微笑む自然である」の日本だったのです。そのように考えると、明治の指導者達が大挙キリスト教に転じたことは、長い目で見れば日本の日本らしさに微妙な影響を及ぼすことになるのかもしれません。
【文例】
[漢詩]
・三五七言 李白
秋風清
秋月明
落葉聚還散
寒鴉棲復驚
相思相見知何日
此時此夜難為情
秋風清くして
秋月明らかなり
落葉[らくえふ]聚[あつ]まりては還[ま]た散[さん]じ
寒鴉[かんあ]棲んで復[ま]た驚く
相思[あひおも]ひ相見[あひみ]ること知[し]んぬ、
何[いづ]れの日ぞ
此の時此の夜、情を為[な]し難[がた]し
[和歌]
・鶉[うづら]鳴く古[ふ]りにし郷[さと]の秋萩[あきはぎ]を
思ふ人どちあひ見つるかな(思う人と二人で嬉しくながめたことです)
『万葉集』1558 丹比国人(たじひのくにひと)
・萩が花散るらむ小野[をの]の露霜に
濡れてを行かむ さ夜は更くとも
『古今和歌集』224 詠み人知らず
・秋はなほ夕[ゆふ]まぐれこそただならね
荻[をぎ]の上風[うはかぜ]萩の下露
『和漢朗詠集』229 藤原義孝
・月影は同じ光の秋の夜を
分きて見ゆるは心なりけり
『後撰和歌集』詠み人知らず
・小倉山[をぐらやま]ふもとの野辺の花薄[はなすすき]
ほのかに見ゆる秋の夕暮[ゆふぐれ]
『和漢朗詠集』232 詠み人知らず
・秋寒み南の窓に文机[ふづくゑ]を
移せば庭[には]のきくも咲きたり
阪正臣『三拙集』昭和6年
[今様]
・秋山 阪正臣『樅屋全集』4
秋の山辺ぞおもしろき
千草は花咲き虫はなき
まなびのわざのいとま(暇)えて
みにくる吾等をなぐさめて
[散文]
・秋の野のおしなべたるをかしさは薄[すすき]こそあれ。穂先の蘇枋[すはう]にいと濃きが、朝霧にぬれてうちなびきたるは、さばかりのものやはある(それほどの風情がほかにあろうか)。
『枕草子』105段
・九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて風のいとさわがしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。
『枕草子』199段
・風いと冷ややかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も折[をり]知り顔[がほ]なり。
『源氏物語』賢木
・月は入り方の空清[きよ]う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声々[こゑごゑ]もよほし顔[がほ]なるもいと立ち離れにくき草のもとなり。
『源氏物語』桐壺
[近現代詩・訳詞]
・秋 ライナー・マリア・リルケ
訳 茅野蕭々『リルケ詩抄』
葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い国が枯れるやうに、
物を否定する身振で落ちる。
さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。
我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覧。総[す]べてに落下がある。
しかし一人ゐる、この落下を
限りなくやさしく両手[もろて]で支へる者が。
・秋の嘆き ステファン・マラルメ
訳 山内義雄『山内義雄訳詩集』
マリアがわたしを離[さ]つて他の星へ行つてから――さてなんの星であらう、オリオンか、アルタイルか、それとも緑色のヴェニュスであるか――わたしはいつも孤独を愛した。数知れぬ長い日々を、私は孤[ひと]り猫とともに過ごした。あへて孤りといふ。つまり形ある生物を友とせざるの謂[いひ]なのだ。そして猫は、わたしにとつて一個神秘な伴侶、一つの精霊にほかならない。かうしてわたしは、数知れぬ長い日々を、孤りわが猫とともに、且はまた拉甸頽唐季[ラテンたいたうき]最後の騒客の一人を友として、孤り過ごして来たのだつた。
掃除機と闘うみや
・秋 阪正臣『樅屋全集』4
一段
ゆたけきあきや 楽しき秋や
しなへる稲穂 色づくこのみ
いづこのさとも にぎはひわたる
二段
雨ふる日にも 風吹く日にも
つとめししるし 励みし功
野山のうへに あらはれわたる
・ かやの実 北原白秋『水墨集』所収
かやの木に
かやの実の生り、
かやの実は熟れて落ちたり。
かやの実を拾はな。
・ 竜胆花 佐藤春夫『我が一九二二年』所収
山路きて 君が指すままに
わが摘みしむらさきの花、
君が問ふままに その名を
わがをしへたるりんだうの花、
そのかの秋山のよき花を 今は
ただしばし思ひ出でよとぞ
わが頼むことは わりなき。
・ 秋思 佐藤春夫
たもとほり
わがゆけば
もすそをとりて
放たざる
径[みち]のべの
さるとりいばら
汝[なれ]はそも
なにごとを
われに訴うる
力なき
われもまた
野末なる
ひともとの草
露霜に
老いゆくものを。
白萩のやど 中勘助『琅*[カン]』*は玉偏に「干」字
琴をひき 芹をつむとふ
山城の 日野にあらねど
世のなかの よしなしごとを
しら萩の 宿はすみよし
雨すぎて 月なき宵の
はまさびし 夜寒ぞはやき
こほろぎよ すがらに鳴きて
うき人の 夢をさますな
[唱歌・童謡]
・かり(かり(雁) わらべうた『小学唱歌(二)』明治25・5
かりかり渡れ
大きなかりは先に
小さなかりは後[あと]に
仲よくわたれ
・ 庭の千草 里見義 『小学唱歌集(三)』明治17・3
1 庭の千草も むしのねも
かれて さびしく なりにけり
ああ しらぎく 嗚呼 白菊
ひとり おくれて さきにけり
2 露にたわむや 菊の花
しもに おごるや きくの花
ああ あはれあはれ ああ 白菊
人のみさをも かくてこそ
・ 故郷の空 大和田建樹 『明治唱歌(一)』明治21年
1 夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
思へば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおはす
2 すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもへば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟[はらから] たれと遊ぶ
・旅愁 犬童球渓 『中等教育唱歌集』明治40・8
1 更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思ひに ひとりなやむ
恋しやふるさと なつかし父母
夢路にたどるは 郷里[さと]の家路
更けゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思ひに ひとりなやむ
2 窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に こころ迷ふ
恋しやふるさと なつかし父母
思ひに浮かぶは 杜[もり]のこずゑ
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に こころ迷ふ
・つつましい秋 福井研介 「赤い鳥」昭和2年
高い梨の木
その影に
子どもが一人梨をかむ。
白い梨の実
黒のたね
子どもが九つ落としてる。
どこか飛んでる
青鷺[あをさぎ]も
月の光に影が散る。
真竹[またけ]にかけた
玉葱[たまねぎ]も
白い光つた芽が出てる。
・里の秋 斎藤信夫
静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨[よがも]の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す
さよならさよなら 椰子の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります
・木の葉 吉丸一昌
散るよ 散るよ
木[こ]の葉が散るよ
風も吹かぬに
木の葉が散るよ
ちら ちら ちら ちら
ちいら ちら
飛ぶよ 飛ぶよ
落葉が飛ぶよ
風に吹かれて
落葉が飛ぶよ
ひら ひら ひら ひら
ひいら ひら