みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第23回 落ち葉の季節:散る木の葉

「泉鏡花集」を開くみや
 
19.11.20 新座市平林寺

1 木の葉の雨


  師走の声を聞くとにわかに今年の残りが気に掛かり出します。見る人のそうした心にも由るのかも知れませんが、12月になった途端、景色にもひとしお「終わり」の気配が濃くなるような気がいたします。秋はいつの間にか暮れて鮮やかだった紅葉も褪せ、初冬の風が廻る今は、まさに落ち葉の季節です。

秋の木の葉は運命に追われて千も二千も無言で地上に落ちる。
       (「枯葉」『明界と幽界』(1896)所収 野口米次郎)



19.11月 東京都清瀬市

銀杏や桜や欅(けやき)などの大樹の下には、この季節のある時、まるで雨降るように絶え間なくさらさらと落ち葉が降るのを見ることがあります。それは落葉(らくよう)が万物の摂理であるということを越えた、夢の不思議を見るような光景です。咲く花の輝きも、降り散る葉の勢いも、同じく人の自由にはならないと言う意味でまことに自然の不可思議です。しかし、人が理解し得て、思うようにできるものというのはもともとそれほど多くはないのです。それなのに、思うようにゆかないことを深く嘆き、あるいはそれに苛立つのは、言ってしまえば人の欲なのでしょう。鮮やかだった木々のもみじが、また一気に散って行く今のような季節に、移り変わりの急な自然の姿を見ていると、改めて今ここにいる自分も実はこの絶えず変転する自然の一部なのだったと思えて、自分に力のないことを思っても、なお安らかな気持ちになってきます。

  「運命に追われて」木々の葉が散ると見た野口米次郎[(明治8(1875)〜昭和22(1947)]は、昭和初期までは中学や女学校の教科書にもよく見る名前でした。珍しい経歴の人です。今日ではあまり活字に見かけなくなり、知る人も少なくなって、この名前そのものより彫刻家イサム・ノグチの父という方が通るかもしれません。



19.11.20 新座市平林寺

2 運命に追われて

  珍しい経歴というのは、この詩人はまずアメリカで発表した英語の詩で認められ、ヨネ・ノグチという日本人詩人としてアメリカ文壇でその文学活動をスタートさせているのです。   子どもの頃からはっきりと文学志向であったと、伝記をみれば明らかですが、国内で活躍する前に19歳で単身渡米して文学放浪の時期を過ごします。その当時アメリカで著名であった詩人ウォーキン・ミラーに見いだされて本格的な作詩を始めたと言われます。初めての詩文集「Seen and Unseen(邦題「明界と幽界」)」がアメリカで出版され、アメリカの文壇にデビューしたのは1896年(明治29)、米次郎が21歳の時です。若い米次郎はアメリカの文学サロンに芭蕉をはじめとして主に近世の日本文学を熱をもって紹介しました。記録が処々に残っています。19歳で国を離れるまでの間に、彼の中には充実した日本文学の素養がすでに蓄えられていました。米次郎が渡米したのには、今日の若者が「世界を見てやろう」という若々しい好奇心で海を越える気分と同じものもあったに違いはありません。純粋な好奇心や向こう見ずな積極性は健康な若者の特権であり、若さの魅力でもありましょう。しかし、米次郎がアメリカで著名な詩人文学者の知遇を得、渡米わずか2年で詩人としての足下を固めることができたのには、「運命」と、在米の時点で彼が備えていた精神の充実が与っていたことは間違いがありません。幼い頃から読書に没頭し、本を読むことが一番楽しい遊びであったという育ち方をした青年ノグチは、語るべき豊かな文化を身に帯びて、異郷の人にも魅力的な存在たりえたのです。



19.11.20 新座市平林寺

  事実、ヨネ・ノグチはアメリカと日本の文学の架け橋として、今では目立たなくなってしまった文化の土台のところで大きく貢献していました。明治37年(1904)に帰国してからは、日本にジェイムズ・ジョイスをはじめとする最先端の英米文学を紹介し、明治39年に慶應義塾の初代英文学科主任教授に就任して、さらにその活動を盛んにします。中学や女学校の教科書に長く詩や文章が採られていたことは、野口が社会的にも高く認められた存在であったことを物語っています。




3 人の運命

  今日、野口米次郎が埋もれてしまったことには、戦時中の言動が問題であったとするのが一般の見解です。アメリカで青春を過ごし、アメリカを懐かしく愛し、英米の詩を紹介し続けたノグチはまた愛国者であることを表明することをよしとして、むしろ好戦的な言論を繰り広げました。よって、敗戦後は公的な場所は勿論、うき世に居場所はなかったのです。明治期から昭和にかけて、文学活動に東西を見わたす貴重な視点をもって活躍した野口の著作も表に出ることがなくなりました。このほかの要因として、詩人金子光晴の考察に「藤田嗣治がフランスで成功したために日本の画壇からボイコットされたように、野口米次郎の詩もアメリカにおける名声ほどに日本人の間で親しまれなかったのは、日本人の偏狭さのゆえがあったのか」というものがあることも御紹介しておきましょう。



19.11月 東京都清瀬市

  近年、この数奇な経歴の詩人野口米次郎を再評価する機運が高まってきていると言います。少なくとも敗戦アレルギー症状からは緩やかに脱却しつつあり、憲法改正を口にしても公職を追われるような心配はない時代になりました。そうすると、なにごとにも「国際化」が喜ばれる現近代の風潮に、この人は本来好まれる条件を備えているのです。
  しかし、野口米次郎が再び文学史に姿を現す時には、改めてその詳細な伝記も人の知るところとなり、アメリカで生まれ、アメリカ人の母とともに父を追って来日したイサム・ノグチ氏の幸福とは決して言えない生い立ちもまた、野口米次郎の再評価に影響を及ぼす要素になってくるかもしれません。
  あるときは父を誇りとしながらも、その関係においておそらく複雑に苦しい思いに耐えつづけたイサム・ノグチは彫刻家として大成し、世界的な活躍をもって父を越える名を残しました。運命に追われるように降る木の葉、慫慂として地に注ぎ続ける木の葉の雨を見ていると、盛んな父ヨネ・ノグチも、忍耐のイサム・ノグチも、皆みなが、生き物の運命に追われながら、その時はそれしかない純情で生きて死んだのであろうと思われてきます。



(19.12.1)


19.11.20 新座市平林寺

【文例】

[漢文]

・床上巻収青竹簟
 匣中開出白綿衣
   床[ゆか]の上[うへ]には巻き収[をさ]む
            青竹[せいちく)]の簟[たかむしろ]、
   匣[はこ]の中[うち]には開き出[いだ]す
            白綿[はくめん]の衣[きぬ]
    『和漢朗詠集』354菅原道真 『菅家文草』「驚冬」より抜粋


・万物秋霜能壊色
 四時冬日最凋年
   万物[ばんぶつ]は秋の霜によく色を壊[やぶ]り、
   四時[しいじ]は冬の日に最も凋年[てうねん]なり。
    『和漢朗詠集』367白居易


・三秋岸雪花初白
 一夜林霜葉尽紅。
   三秋[さんしう]の岸の雪に花初[はじ]めて白く、
   一夜[いちや]の林の霜に葉はことごとく紅[くれなゐ]なり。
    『和漢朗詠集』368温庭*(*はタケカンムリ+「均」字)
    「般若寺別成公」詩


19.11.12 東京都清瀬市

[和歌]

・風吹けば落つるもみぢ葉水きよみ
 ちらぬかげさへ底に見えつつ
   『古今和歌集』304凡河内躬恒


・吹く風の色のちぐさに見えつるは
 秋の木の葉のちればなりけり
   『古今和歌集』290詠み人知らず


・道知らばたづねもゆかむ もみぢ葉を
 幣とたむけて秋はいにけり
   『古今和歌集』313秋歌の巻末歌 凡河内躬恒


19.11.20 新座市平林寺

[近現代詩・訳詞]

・残照(抜粋)  木下杢太郎「秋風抄」より

 秋の日の吐息あかあか
 樟[くす]の葉にしばしはほめけ

 一時[ひととき]よ やがて真黒に
 暮れゆかむ、街と思[おもひ]と。


・浅草寺(抜粋第3連)  木下杢太郎「秋風抄」より

 銀杏樹[いてふ]の落葉陽[ひ]に揺れて寒き地にこそ帰[かへ]りぬれ、
 陰につどへる人の子は日の歓楽の酔[ゑひ]さめて
 何処[いづち]にかへる、夕霧に文色[あいろ]もわかず日は暮れぬ。

・秋の朝の情調(抜粋)  木下杢太郎「緑金暮春調」より

 燻銀[いぶしぎん]うるふが如く朧[おぼろ]げる ―けさは朝なり。
 冷[ひや]き空気葉末に凝りて身震へる
 そが一叢[ひとむら]の後には、古白壁[ふるしらかべ]に、
 はつかにも薄紅[うすあか]き優心[やさごころ]ひとりゆらめく。



19.11.20 新座市平林寺

・山院秋晩図(抜粋)   日夏耿之介「黄眠帖」より

 日はややに西に臼づき
 夕風は 紫苑[しをん]の葉末[はずゑ]に
 一握の白露をそつと置きすてて
 連峰北角の杣より覗く
 白き上弦の秋月を泊てしむる


・枯葉(抜粋)   野口米次郎「明界と幽界」より

  秋の木の葉は運命に追はれて千も二千も無言で地上に落ちる。地面は黄色の襤褸で敷物しいたやうだ。ああ、空を払ふ黄金色の秋の風は、夢路をたどつて永遠の静寂へ入る。御覧なさい、秋の木の葉は地上へ落ちる、飛ぶ、彷徨ふ。
  私の書斎は谷間の河と変はつて私は青黒い影に埋もれ、前後を顧みて、人一人も居らない孤独の感に撃たれる。過去幾千年間に亙つて生きては死んだ私の親愛なる祖先はどこへ行つたのであらう。数限りのない人はあの海を越えて去つて仕舞ひ、私一人を林中に捨てた。ああ、私は淋しい、淋しい  私はこの静寂な書斎でただ独り、思想で色づけられてゐる私の霊の木の枯葉が、清浄な原稿紙へ落ちるのを眺めてゐる。   「枯葉」(「明界と幽界」1896 野口米次郎)


・風(抜粋)  野口米次郎「夏雲」より

 私は風が秋草の陰で溜息[ためいき]するのを聞く、


・小さい歌  野口米次郎「夏雲」より

 今日幸福な小さい歌が風と共に過ぎゆく。私は何処[どこ]へでもそれを追ふであらう。恰[あたか]も木の葉の小さい声の如く、笑ひながら歌ひながら、幸福な小さい歌は過ぎゆく。
 今幸福な小さい歌はぱつたり止んだ……白い露は星のしたで落ちる。幸福な小さい歌は平和の家へ急いで眠[ねむり]に就[つ]くであらうか。
 私は幸福だ、小さい歌の行く処なら何処へでも行くであらう。



19.11月 東京都清瀬市

・鶉[うづら]  中勘助「琅*[カン]」*は玉偏に「干」字

 しらず しらず かりもまことも
 われやひと ありやなしやも
 松風ふきあれて 夢もなき暁に
 さびし かつかつと 玉をうつ鶉の声[こゑ]


・冬  八木重吉「貧しき信徒」より

 木に眼が生つて人をみている


・落葉林で   立原道造「暁と夕の詩」より

  あのやうに
  あの雲が 赤く
  光のなかで
  死に絶えて行つた

  私は 身を凭[もた]せてゐる
  おまへは だまつて 背を向けてゐる
  ごらん かへりおくれた
  鳥が一羽 低く飛んでゐる

  私らに 一日が
  はてしなく 長かつたやうに

  雲に 鳥に
  そして あの夕ぐれの花たちに

  私らの 短いいのちが
  どれだけ ねたましく おもへるだらう か




・風と枯木の歌(抜粋)  立原道造「暁と夕の詩」より

 むかしむかし 明るい草原ばかりを吹いてゐただい
 野あざみや野ばらが溢れそこには花咲いてゐた
 あれはもう夢のやう わたしの声を
 ひとびとは胸をどきどきさせて聞いてゐた……

 ひとしきり落葉[らくえふ]して 灰色のなかに灰色で
 あなたの姿は描かれた その日から
 わたしは歌を変へはじめた もう誰も私をうけとらない

 おまへは己をいつも傷める おまへが
 うたつてゐるのだらうか おれがうたつてゐるのだらうか
 こんな哀しいくりごとを!ああ 雲のゆききの冷たいこと!




  寒がりの家族がいるのでこたつをだしたところ、みやが自分用だと
  心得て、ちゃっかり占有しています。
  長期予報は厳しい冬になるとの観測です。インフルエンザの流行も
  例年より早くに聞こえていますね。皆さまどうぞお身体おいとい下さい。

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