みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第9回 新緑の頃:惜春・五月・緑・藤・花橘・菜の花・ちょうちょう

「泉鏡花集」を開くみや

1風と光と

緑のそよ風  清水かつら

みどりのそよ風 いい日だね
蝶蝶[ちょうちょ]もひらひら 豆のはな
七色畑[なないろばたけ]に 妹の
つまみ菜摘む手が かわいいな

みどりのそよ風 いい日だね
ぶらんこゆりましょ 歌いましょ
巣箱の丸窓 ねんねどり
ときどきおつむが のぞいてる

 新緑を吹き渡る風、風がめぐる七色(なないろ)の畑、さわやかに明るい情景の中に盛んな草木の生長も感じさせるこの詩は、今でも皆が口ずさむことができる懐かしい童謡です。唱歌や童謡の世界では、緑の野原や畑には蝶が歌われることも多かったのですが、街の中に街路樹は整えられても野原空き地のなくなった今日、身の回りでチョウチョのひらひらを見ることのできる人も限られているかも知れませんね。

 5月は若葉の季節、春はたけて陽気の好い日には初夏の気配も漂う季節の変わり目でもあります。現行暦の今年の5月1日は陰暦では4月4日ですから、昔の暦でも春を送ったところです。

 今の時分、陰暦の4月の描写として印象的なものに『和泉式部日記』の冒頭があります。

 ゆめよりもはかなき世のなかをなげきわびつゝあかしくらすほどに、四月十余日[とをよひ]にもなりぬれば、木のしたくらがりもてゆく。

 人に身分の違いを咎められながら、世間に背を向けてでも貫いていた恋の相手弾正宮為尊親王(だんじょうのみやためたかしんのう・冷泉帝第三皇子)は、流行病であっけなく薨去しました。「ゆめよりもはかなき世の中をなげきわび」て、止まったままの時間に暮らしていた和泉式部が、繁り行く草木の緑に時の流れをふと実感する、という語り出しです。「木の下」が「暗がりもてゆく(暗くなってゆく)」というのは、その木の枝葉が深く繁りあって根方に日の光を通さなくなるほどであることを言い、古典ではこの季節の緑の繁茂に用いられる表現として格別めづらしいものではありません。しかし『和泉式部日記』では、悲しみに暮れて何ものも目に入らなかった女が現実の時の流れに気づくきっかけとして描かれることで、この緑の生長はとりわけ生き生きと盛んに感じられ、生気を失っている女との対比が鮮やかです。四月十余日というのは現行暦に重ねればおよそ5月の中頃のことになりましょう。

 季節の変わり目であるこの時期、遅い桜がまだ残る中、花はツツジが咲き、藤の花房がほころびます。草の花も新緑に映えてさまざまきれいです。受け継いで来ている古典の自然表現の中では、5月といえばなんといっても橘[たちばな]でしょう。『古今和歌集』にある詠み人知らずの古歌は、その後の五月のイメージを決定づけたと言えます。

  五月[さつき]待つ花橘の香[か]をかげば昔の人の袖の香[か]ぞする

 この頃のカグ(嗅ぐ)という言葉は現代語とはやや趣が違い、みやがするように、ものに顔をくっつけて積極的に匂いをクンクン嗅ぎに行くような動作ではありません。漂う香りを嗅覚に感じるという程度の意味に使います。この歌は、5月が近づいた頃、ふと空気に花橘の香りを感じた(花橘が近くで花開いた)ことから詠まれた歌です。ああこの香りだ、これは昔知っていたあの人の袖の香り。そんな、何気ない気づきの歌なのでしょう。それが何とも心に沁みるのは、花橘の香り、さわやかでやや切ない柑橘の香りが、言い知れない懐かしさに響き合うからでしょう。「昔の人」とは昔の恋人と解釈されるのが一般です。詠み人知らずの一首からはそれ以上具体的なことはもちろん知りようもありません。しかし「昔の人」とはかつて親しかった人、そして、故人も含めて今はもう会うことのない人のことです。そのことだけで、この心情を量るには十分です。

 初夏、明るい季節の、白いさわやかな花の、目を閉じていてもあたりに満ちてくる芳わしい香。思い出の人の薫香、思い出す昔。この歌は『古今和歌集』以来季節の代表的な歌として残ったばかりでなく、昔を懐かしむ心を投影して盛んに引用されました。先に御紹介した『和泉式部日記』にもこの歌の第4句「昔の人の」と口ずさむだけで、歌全体を読者に思い起こさせる記述があります。十世紀以降、この歌は古典の常識になったのです。

 その花橘、橘とは、いったいどんな植物でしょう。調べるところに拠れば、橘というのは唯一日本原産とされる柑橘類で、紫宸殿に左近の桜と並んで右近の橘があるのも知られているとおりです。しかし文学に現れる橘はこの一品種を指すのではなく、食用にされるものも含めて多種類のミカン類の総称であったようです。
古典作品から橘の記述を探すと、詳しいのは『枕草子』です。ここにあるのが当時の人が見ていた橘です。
 四月の晦[つごもり]、五月の朔[ついたち]のころほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたる早朝[つとめて]などは、世になう心あるさまに、をかし。(果実が)花の中より黄金[こがね]の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露に濡れたる朝ぼらけの桜に劣らず、ほととぎすのよすが(来て宿るところ)とさへ思へばにや、なほさらに言ふべうもあらず。
(三十四段「木の花は」)

 この記述と具体的に合うものを今日ある柑橘類から探すと、ミカン科ナツミカンが最もこれに近いかと見られています。


ナツミカンの花

 古典の五月(さつき)は現行暦の6月中旬以降になりますから、言葉として知っている五月雨(さみだれ)は今の5月の雨ではありません。実際には梅雨を指します。よって、古典の五月(さつき)は明らかにうっとおしい季節を意味して使われる点が、現在のさわやかな5月のイメージとは異なり、注意のいるところでしょう。

【文例】(※は本文中に記事あり)
[漢詩]

三月三十日、題慈恩寺(三月三十日、慈恩寺に題す) 白居易
慈恩春色今朝尽
尽日徘徊倚寺門
惆悵春帰留不得
紫藤花下漸黄昏

慈恩の春色[しゆんしよく]今朝[こんてう]尽き
尽日徘徊して寺門に倚[よ]る
惆悵す、春帰りて留め得ざることを
紫藤花下、漸[やうや]く黄昏

三月二十九日 蘇軾
門外橘花猶的*(*は白+樂)
牆頭茘子已*(*は文+闌)斑
樹暗草深人静処
巻簾欹枕臥看山

門外の橘花猶[な]ほ的*[てきれき]たり
牆頭[しやうとう]の茘子[れいし]、已[すで]に*斑[らんぱん]たり
樹暗く草深く、人静かなる処
簾を巻き枕を欹[そばだ]てて、臥して山を看る


紫藤露底残花色
翠竹煙中暮鳥声

紫藤[しとう]の露の底に残[のこ]んの花の色
翠竹[すゐちく]の煙[けむり]の中に暮の鳥の声[こゑ]
「四月有余春詩」源相規『和漢朗詠集』134

躑躅[つつじ]
晩蘂尚開紅躑躅
秋房初結白芙蓉

晩蘂[ばんずい]なほ開く紅躑躅[こうてきちよく]
秋の房[はなぶさ]初[はじ]めて結ぶ白芙蓉[はくふよう]
白居易『和漢朗詠集』137

[和歌]

やよひのつごもりの日あめのふりけるに、ふぢの花 ををりて人につかはしける
ぬれつつぞしひて折[を]りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば
在原業平「古今和歌集」133
思ひいづるときはの山の岩躑躅[いはつつじ]
言はねばこそあれ恋[こひ]しきものを
詠み人知らず『古今和歌集』
※五月[さつき]待つ花橘[はなたちばな]の香[か]をかげば
昔の人の袖の香[か]ぞする
詠み人知らず『古今和歌集』139
わが宿の藤[ふぢ]の色濃きたそかれに尋[たづ]ねやは来[こ]ぬ
春の名残[なごり]を『源氏物語』藤裏葉
五月[さつき]来ぬわすれな草もわが恋[こひ]も今しほのかに
にほひづるらむ芥川龍之介「芥川龍之介歌集」
ふるさとの野辺の五月に咲く花の白きよりなほなつかしきかな
佐藤春夫『少年閑居不善抄』より
[散文]

・※ゆめよりもはかなき世のなかをなげきわびつゝあかしくらすほどに、四月十余日[とをよひ]にもなりぬれば、木のしたくらがりもてゆく。
『和泉式部日記』
・※四月の晦[つごもり]、五月の朔[ついたち]のころほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたる早朝[つとめて]などは、世になう心あるさまに、をかし。(果実が)花の中より黄金[こがね]の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露に濡れたる朝ぼらけの桜に劣らず、ほととぎすのよすが(来て宿るところ)とさへ思へばにや、なほさらに言ふべうもあらず。
『枕草子』34段
・大きなる松に藤の咲きかかりて月影になよびたる、風につきて、さと匂[にほ]ふがなつかしく、そこはかとなき香[かを]りなり。
『源氏物語』蓬生

[訳詩・近現代詩・歌謡]

・ミニヨンの歌  ゲーテ
其一
レモンの木は花さき くらき林の中に
こがね色したる柑子[かうじ]は たわわにみのり
青く晴れし空より しづやかに風吹き
ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
くもにそびえて立てる国をしるや かなたへ
君と共にゆかまし

其二
高きはしらの上にやすく すわれる屋根は
そらたかくそばだち ひろき間もせまき間も
皆ひかりかがやきて 人かたしたる石は
ゑみつつおのれを見て あないとほしき子よと
なぐさむる なつかしき家をしるや かなたへ
君と共にゆかまし

其三
立ちわたる霧のうちに 驢馬は道をたづねて
いななきつつさまよひ ひろきほらの中には
いと年経たる竜の 所えがほにすまひ
岩より岩をつたひ しら波のゆきかへる
かのなつかしき山の道をしるや かなたへ
君と共にゆかまし

ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』(1783)より
小金井喜美子訳 『於母影』所収

・空の色さへ陽気です
時は楽しい五月です  ポール・フォール

海は生垣の上に光ります。
海は貝殻のやうに光ります。
沖へ出て釣をたれたら楽しかろ。
空の色さへ陽気です
時は楽しい五月です

生け垣の上に光つて見える
海はやさしい、やはらかい、
まるで嬰児[あかご]の手のやうだ、
撫でたら気持がさぞよかろ。
空の色さへ陽気です
時は楽しい五月です

ポール・フォール「空の色さへ陽気です 時は楽しい五月です」(『フランスのバラード』(1897))堀口大学『月下の一群』より抜粋

・野花に寄する抒情  佐藤春夫『抒情新集』昭和24年

山高み
ここにして
たゆたふ春の
くれなづむ
道のほとりの
よつづみのくれなゐ淡く
ほのかにも白き卯の花
すひかづら
花むらがりて
散りがての
あめいろにほひ
かなしみの
淡盛草の
かぐはしき
小野の径[こみち]に
よき花を
誰とか摘まむ

反歌
かぐはしく野はなりにけりよき花を
君ならずして誰と摘むべき

・※緑のそよ風  作詞 清水かつら 作曲 草川信
1.みどりのそよ風 いい日だね
  蝶蝶(ちょうちょ)もひらひら 豆のはな
  七色畑に 妹の
  つまみ菜摘む手が かわいいな

2. みどりのそよ風 いい日だね
  ぶらんこゆりましょ 歌いましょ
  巣箱の丸窓 ねんねどり

  ときどきおつむが のぞいてる
3. みどりのそよ風 いい日だね

  ボールがぽんぽん ストライク
  打たせりゃ二塁の すべり込み
  セーフだおでこの 汗をふく

4.みどりのそよ風 いい日だね
  小川のふなつり うきが浮く
  静かなさざなみ はねあげて
  きらきら金ぶな 嬉しいな

5.みどりのそよ風 いい日だね
  遊びにいこうよ 丘越えて
  あの子のおうちの 花ばたけ
  もうじき苺も 摘めるとさ

・ 若葉  作詩 松永みやお 作曲 平岡均之

1.あざやかなみどりよ 明るいみどりよ
  とりゐをつつみ わらやをかくし
  かをるかをる 若葉がかをる

2.さはやかなみどりよ ゆたかなみどりよ
  田畑をうづめ 野山をおほい
  そよぐそよぐ 若葉がそよぐ

・菜の花小道  作詩 西岡水郎 作曲 山本芳樹

1.なんなん菜の花咲く道は
七つのこどもが手々[てて]ひいて
お歌を歌つて通る道

2.なんなん菜の花咲く道は
お花の匂いに春風に
ちょうちょとならんでかける道

3.なんなん菜の花咲く道は
お空のかすみにかげろうに
ひがさをまわして通る道

・てふてふ(ちょうちょう) 野村秋足・稲垣千頴 スペイン民謡

てふてふ(ちょうちょう) てふてふ(ちょうちょう)
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
(原詩:桜の花の さかゆる御代に)
とまれよ あそべ あそべよ とまれ
野村秋足(あきたり)


おきよ おきよ ねぐらの すずめ
朝日のひかりの さしこぬさきに
ねぐらをいでて こずえにとまり
あそべよ すずめ うたへよ すずめ
稲垣千頴(ちかい)

・チョウチョウ  まど・みちお

チョウチョウは
ねむる とき
はねを たたんで ねむります

だれの じゃまにも ならない
あんなに 小さな 虫なのに
それが また はんぶんに なって
そっと・・・

だれだって それをみますと
せかいじゅうに
しーっ!
と めくばせ したくなります

どんなに かすかな もの音でも
チョウチョウの ねむりを
やぶりはしないかと・・・

まど・みちお『どうぶつたち』より、抜粋引用

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