みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第16回 夏のアルバム:納涼、秋風を待つ

「泉鏡花集」を開くみや

1 残暑お見舞い申しあげます


19.8.9(東京都清瀬市)

  立秋を過ぎましたが暑さの勢いが衰えません。例年ですと、厳しい残暑の中でも夜には秋風の気配が立ち、陰暦7月7日七夕(現行暦で今年は8月19日)の夜にもなればなるほど涼しい星影も見えるのですが、今年はさあどうでしょう。そう言えば、猛暑日という言葉を聞くのはこの夏が初めてのような気がして調べると、確かにこれは今年の4月に新しく気象用語に加わった言葉でした。一日の最高気温が35℃以上の日を言います。一日の最高気温が35℃以上の日は1990年以降急増しているといいます。この10年間(1997〜2006年)の主要4都市(東京・名古屋・大阪・福岡)における35℃以上の日は4都市合計で335日にのぼり、1967〜76年の10年間の三倍近くになるそうです。そのため、気象の特性を表しやすいように「夏日(1日の最高気温が25℃以上)」と「真夏日(1日の最高気温が30℃以上)」、「熱帯夜(夜間の最低気温が25℃以上)」に加えて、「猛暑日」という表現が今夏に先立って用意されていたのです。


19.8.8(東京都清瀬市)

  8月15日、日本人がおそらく永久に特別の日として忘れない敗戦記念日は、毎年厳しい暑さの日としてやって来て、遠くなりゆく惨禍の記憶をまた新しく掻きたてます。実に今年の8月15日は群馬県の館林で40.2℃を記録するなど、日本各地でその最高気温の記録を塗り替えました。しかしここまで暑いと、現実の暑さはすでに歴史の悲惨とは結ばれない別物の災難です。それでなくとも関東地方は熱帯夜がもう2週間以上続いています。際だって酷暑の日となった今年の敗戦の日には、我が家でも大きさ別に三つあるメダカの水槽のうち、最も若い、生まれてひと月未満サイズのメダカを泳がせていた水槽で、大量のメダカが死んでしまいました。小さすぎる命、そうではなくて、命の入れ物が小さすぎる生き物は、異様に高くなった水温に耐えられなかったようなのです。

 ・アリ
   アリを見ると
   アリに たいして
   なんとなく
   もうしわけ ありません
   みたいなことに なる

   いのちの 大きさは
   だれだって
   おんなじなのに
   こっちは そのいれものだけが
   こんなに
   ばかでかくって・・・・・・
      『どうぶつたち』より  まど・みちお

  そんな猛暑の夏ですが、みやは早くもこの世の暑さに馴染んだようです。何しろ日中は暑いので家内はとかく昼寝モード。みやも付き合ってダレニャンをしていますが、家族が玄関に立つ気配がすると、どこにいても全速力でやってきます。庭に出たいのです。この頃は主人が履物を履くのに少し屈[かが]むと、当たり前のようにその背から肩に登り、主人の身体の一部のようにそのまま玄関を出てゆきます。戸口を出ると、肩を貸した人の数歩の距離にある庭石に飛び移り、石づたいに庭を遊ぶのが実に楽しいらしいのです。草の葉を噛んだり、花を齧ったり、蟻について行ってゆっくり木に登ったり。そして夏の盛りの庭にはみやにとって面白い生き物の宝庫です。気に入りの絵本や大きめの本を持っていってやると、遊びの合間には緑陰の読書?ページの間に顔を突っ込んだりもしています。


19.8.6(東京都清瀬市)

  庭で過ごすことに熱心なみやはまだ暗いうち、早い蝉が鳴き始める早朝4時を回る頃にはもう起こしに来ます。家族はもちろんすぐには床を出られません。寝続けていると、やがて玄関でベルが鳴り出します。ドアの内側に釣り鐘型のベルがあり、ドアの開閉で揺れて出入りを知らせるのですが、施錠して閉め切った玄関に初めてこのベルが鳴り響いた時は仰天しました。外出しようとして門を出ようとしたら、家の中で激しくベルが鳴り出した日のことです。みやの後追いでした。戸口近くまである下駄箱の上に乗ってドアの内側のベルを叩いていたのです。これを覚えて、みやは外出を促す時もさかんにベルを鳴らすようになりました。小一時間、玄関のリンリンとミヤミヤ鳴きに急かされて、我が家の朝が始まります。

2 うつせみの
  庭には毎日新しい蝉の抜け殻を沢山見ます。夜の間に地中から出てきて木や草の低いところ、あるいは家の網戸にも止まって殻を脱ぎ、そのままこのあたりで過ごすのか、我が家は終日蝉の声に包まれています。近いものでは網戸にとまったままのんきに一日鳴いています。眼を凝らせば柿の木一本だけでも3匹4匹の蝉が見えますから、庭にはおそらく何十匹かが鳴いているのでしょう。たいへん賑やかですが、馴れるとその響きの良い音声は良い声の読経のようでもあり、なにやらありがたく涼しい波のようでもあります。


19.8.5(東京都清瀬市)

19.8.5(東京都清瀬市)

  「うつせみ」という言葉がこの蝉の殻、空蝉を表すようになるのは平安時代になってからです。「うつせみ」という言葉は本来「うつそみ」で、「うつ」は「うつつ(現)」すなわち現実と同根、「うつそみ」現実の今、現実のこの身、といった意味です。これから転化した「うつせみ」は、詩歌の世界では知られるとおり、「うつせみの」という枕詞で「世」や「世の人」に掛けて『万葉集』の頃から使われましたが、奈良時代にはまだ必ずしもはかないとかむなしいとかの意味を響かせることはありませんでした。「うつせみ」を空蝉・虚蝉と理解するようになってはじめて、はっきりと虚無的な意味合いを帯びるようになったのです。歌語や歌の修辞に詳しい平安中期の『能因歌枕』にはこの言葉を解説して、「うつせみとは、むなしきものにたとふ。蝉のぬけたるかへりがらとも(言ふ)」とあります。


19.8.5(東京都清瀬市)

  蝉の殻は生き物の形をしながらぽっかりと空っぽで、わかりやすい譬えであったせいか脈々と承け継がれて今日の詩歌、また散文にもよく使われます。詩歌の修辞の中でも枕詞は最も古い時期の技法で、『万葉集』の頃の歌には枕詞が鮮やかに生きる歌が沢山詠まれています。しかし、和歌の楽しみはやがて掛詞や縁語など知的で複雑な言語遊戯に移って行きました。かつての枕詞で今日に残り、これほど自然に現代の文学にも溶け込んでいる言葉は少ないでしょう。

  さて、虚無的な意味合いもなく「うつせみ」を使っていた奈良時代の人はともかく、むなしいことの譬えに用いていた平安時代の人々は、賑やかに鳴く蝉が、その一生の最後のほんの一時の姿だと知っていたでしょうか。およそ6年もの時間を地中で過ごし、地上に出て来るとあとはわずか一週間足らずの命だと聞きます。それを知ればむしろ、日盛りにあたりを揺るがして鳴く盛んな蝉の声も実にはかなく、むなしい「うつせみの世」を思い起こさせるよすがに思えてきます。
しかも運の悪いものは、6年地中にあって、出てきた途端に室内にいるみやに捕られたりするのです。無常というしかありません。


19.8.5(東京都清瀬市)

   じじといへば聞き耳立つる猫殿[ねこどの]の
      眼[まなこ]の中[うち]の光恐ろし   『御伽草子』

厳しい夏が続いておりますが、皆さまどうぞお大切にお過ごし下さい。

【文例】

[漢詩]

・「苦熱題桓寂禅師房」より抜粋 白居易
 不是禅房無熱到
 但能心静即身涼
  是[これ]禅房[ぜんばう]に熱[ぜつ]の到ること無きにあらず。
  ただ能[よ]く心静かなれば即[すなは]ち身も涼し。
   『和漢朗詠集』161納涼

・「夏日偶興」より抜粋 菅原道真
 臥見新図臨水障
 行吟古集納涼詩
  臥[ふ]しては新図[しんと]
    臨水[りんすゐ]の障[しやう]を見(み)、
  行[ゆ]きては古集[こしふ]
    納涼[なふりやう]の詩を吟[ぎん]ず。
   『和漢朗詠集』163納涼

・「夏日閑避暑」より抜粋 源英明
 池冷水無三伏夏
 松高風有一声秋
  池[いけ]冷[ひや]やかにして水[みづ]に三伏[さんぷく]の夏無く、
  松高くして風に一声[いつせい]の秋有り。
  註:三伏 夏の末で立秋の前後30日の最も暑い時期。
     初伏・中伏・末伏の各10日を併せた30日。
    『和漢朗詠集』164納涼

・「吟初蝉」 紀納言(紀長谷男)
 歳去歳来聴不変
 莫言秋後遂為空
  歳[とし]去り歳[とし]来[きた]りて
    聴[き]けども変[へん]ぜず、
  言ふこと莫[な]かれ秋の後[のち]に
    遂[つひ]に空[くう]と為[な]らんと。
 『和漢朗詠集』196蝉



19.8.5(東京都清瀬市)

[和歌]

・涼[すず]しやと草むらごとに立ちよれば  暑さぞまさる常夏[とこなつ]の花    註:常夏は撫子(なでしこ)の異名。
     常夏と呼べば夏の花、撫子と呼ぶ時は
     秋の花として見る。    『和漢朗詠集』165

・なつ山のみねのこずゑのたかければ
 空にぞせみのこゑはきこゆる
  『和漢朗詠集』197

・空蝉[うつせみ]の世は憂きものと知りにしを
 また言[こと]の葉にかかる命よ
 『源氏物語』夕顔

・羽衣[はごろも]の薄きに変はる今日[けふ]よりは
 空蝉[うつせみ]の世ぞいとど悲しき
 『源氏物語』幻

・※じじといへば聞き耳立つる猫殿[ねこどの]の
 眼[まなこ]の中[うち]の光恐ろし
 『お伽草子』

[散文]

・あてなるもの 薄色に白襲[しらがさね]の汗衫[かざみ]。かりのこ。
削り氷[けづりひ]にあまづら入れて、あたらしき金鋺[かなまり]に
入れたる。水晶[すいしやう・すいさう(三巻本系統本文)]の数珠
[ずず]。
 『枕草子』42段

・冬はいみじうさむき(が良い)。夏は世に知らずあつき(が良い)。
 『枕草子』118段

・暑げなるもの (中略)色くろき人の、いたく肥えて、髪おほかる。琴の
袋。七月の修法[ずほふ]の阿闍梨[あざり]。日中の時[じ]などおこ
なふ、いかに暑からんと思ひやる。また、おなじ頃のあかがねの鍛冶。
 『枕草子』123段

・ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢[よはひ]。春、夏、秋、冬。
 『枕草子』260段

・夏の下町の風情[ふぜい]は大川[おほかは]から、夕風[ゆふかぜ]
が上潮[あげしほ]と一緒に押上げてくる。洗髪、素足、盆提灯
[ぼんちやうちん]、涼台[すずみだい]、桜湯。お邸方[やしきがた]
や大店[おほだな]の歴々には味へない町つづきの、星空の下での懇親
会だ。湯屋[ゆや]より、もちつとのびのびした自由の天地だ。
 『旧聞日本橋』長谷川時雨

・我々は花を散らす風において歓びあるいは傷むところの我々自身を見いだす
ごとく、ひでりのころに樹木を直射する日光において心萎[な]える我々自
身を了解する。すなはち我々は「風土」において我々自身を、間柄としての
我々自身を見いだすのである。
『風土』和辻哲郎


19.8.8(東京都清瀬市)

[近現代詩]

・夏のすがた  ヘッベル
     藤原定 訳
  ぼくは見た 夏のさいごのバラ
  血がしたたりさうに赤かつた、
  ぼくは言つた 通りすがりにふるへつつ
  「これほどまでに生ききると すぐに死ぬ」

  そよとの風もない暑いひるまで、
  白い蝶がひとつ ひつそりと飛び
  その羽が空気をうごかすといふほどでもないのに
  バラはそれを感じて 散つてしまつた。

・みどりの木の葉  シュトルム
     藤原定 訳
  もえさかる夏の日の 木の葉一枚
  散歩しながら採つてきた。
  いつの日か ぼくに話してくれるやう、
  道すがら ウグヒスが高らかに鳴き
  森のみどりが 眼にしみたことを。

・※アリ
  アリを見ると
  アリに たいして
  なんとなく
  もうしわけ ありません
  みたいなことに なる

  いのちの 大きさは
  だれだって
  おんなじなのに
  こっちは そのいれものだけが
  こんなに
  ばかでかくって・・・・・・
  『どうぶつたち』より  まど・みちお

[唱歌・童謡]

・風  クリスティナ・ロゼッティ 
    西条八十 訳
 誰[たれ]が風を 見たでせう
 僕もあなたも 見やしない、
 けれど木の葉を ふるはせて
 風は通りぬけてゆく。

 誰が風を 見たでせう
 あなたも僕も 見やしない、
 けれど樹立[こだち]が 頭[あたま]をさげて
 風は通りすぎてゆく。

・黄金虫[こがねむし]  野口雨情
 黄金虫は金持ちだ。
 金蔵[かねぐら]建[た]てた 蔵建てた。
 飴屋[あめや]で水飴[みづあめ]、買つて来た。
 金蔵[かねぐら]建[た]てた 蔵建てた。
 飴屋[あめや]で水飴[みづあめ]、買つて来た。

 黄金虫は金持ちだ。
 金蔵建てた 蔵建てた。
 子供に水飴、なめさせた。
  『金の塔』(大正11年)

・「蝉の子守歌」より抜粋  島崎藤村
 ねんねんよ。おころりよ。
 ころ、ころ、ころ、ころ、おころりよ。
 ねんねんよ。おころりよ。
 おうしいつくつく、ねんねしな。
 ねんねんよ。おころりよ。
 みん、みん、みん、みん、ねんねしな。
 ねんねんよ。おころりよ。
 かな、かな、かな、かな、ねんねしな。
 ねんねんよ。おころりよ。
 めんめがさめたら、なにあげよ。
 『金の星』(大正14年)

・ちいちゃな風  水谷まさる
 ちいちゃな風は
 どうしたの
 草んなかへ はいりこみ
 迷子になって しまったよ

 ちいちゃな風は
 どうしたの
 鈴虫さんに 道きいて
 やっとこさあと 出てきたよ

 ちいちゃな風は
 どうしたの
 大きい風に 抱っこして
 お空にのぼって しまったよ
  『日本童謡集』(大正15年)
  *表記は「日本童謡集」(岩波文庫)のまま。


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