みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第8回 人は思い出で生きている:忘れな草、忘れ草

「泉鏡花集」を開くみや

1 わすれないで
  わすれなぐさ

   ながれのきしのひともとは、
   みそらのいろのみづあさぎ、
   なみ、ことごとく、くちづけし、
   はた、ことごとく、わすれゆく。
        ヰルヘルム・アレント
        上田敏訳(「海潮音」明治38年(1905))


ワスレナグサ平成19/4/11

 わすれな草はムラサキ科の多年生植物、丸みのある幅広の葉が繁る中に小さな控えめな青い花をつける素朴な花です。いかにも野草然とした佇まいの植物ですが、ガーデニングが長いブームになっている今日、花屋さんにも苗がたくさん入っています。原産はヨーロッパ中北部、日本より緯度の高い地方です。ドイツにこんな伝説があります。

騎士ルドルフが恋人ベルタのためにドナウ河畔に咲く可憐な青い花を摘もうとしたが、足を滑らせて急流に命を落とした。水中に消える間際にルドルフが投げた「私を忘れないで」という言葉をベルタは一生忘れず、この花をずっと髪に飾り続けた。

この花のドイツ名Vergissmeinnich(私を忘れないで)は、この物語を由来とするとされます。英語圏ではそれを英訳したForget-me-notの名で知られています。青春のカリスマとも称された夭折の異才尾崎豊[昭和40〜平成4年(1965〜1992)]の曲にも「Forget-me-not」(アルバム「壊れた扉から」に収録)と題する佳作があり、叙情的な曲想とともにこれを花の名として覚えた人も多かったことでしょう。尾崎豊の墓は狭山湖のほとり、見晴らしのよい丘陵の上にあります。4月25日の命日に、この忘れな草が墓前を埋めるのは一部に有名な話で、私もかつてそれを実際に見たことがあります。作者が亡くなっても歌は古びずに愛され続けているという事実を、たいへんわかりやすく見たような気がしました。


 尾崎豊墓前 平成17/4/25
命日のこの日には墓参の人が絶えない。生前の尾崎を
 知らなかったはずのティーンエイジャーも多い。
 

  我が国ではワスレナグサは明治時代になって登場する言葉で、それ以前にはありません。「勿忘草(わすれなぐさ・「勿」は禁止「してはいけない」の意)」などと表記されています。しかし「してはいけない」の意味を表す禁止の終助詞「な」は終止形に付く言葉です。「忘れてはいけない・忘れないで」を言うならば「忘るな」でなければ文法的にはおかしいのです(忘れな草の「忘れ」は未然形または連用形)。「忘れな」では意味が通りません。今よりはるかに文語的であった明治人の言語センスには一層不可解な言葉であったでしょう。よって、すでに一世紀ほど前(明治の終わり頃)には植物学者の牧野富太郎(1862〜1957)が「わするなぐさ(忘るな草)」と呼ぶ方がふさわしいと改めて命名しています。けれどもその名は広まらず、今日「忘れな草」の別名としてわずかに知られる程度です。

  意味がよく分かる「忘るな草」の名の方が定着しなかったのはどうしてなのでしょう。その理由として、日本にはワスレナグサが明治に登場するはるか昔から、よく似た響きのワスレグサと呼ばれる植物があったことが影響しているのではないかという考察があります。

2 忘れたい
  私たちの古典にワスレグサとして登場する花は、忘れな草とは全く類の違うユリ科の植物カンゾウ(ノカンゾウ・ヤブカンゾウ)のことです。この花は開いて一日限りでしぼんでしまうところから、たちまち過ぎ去るものとしてワスレグサと呼ばれるのだそうです。登場は『万葉集』に遡ります。

  忘れ草わが紐に付く 香具山の故[ふ]りにし里を忘れむがため
  (忘れ草の花を私の下紐に付ける。香具山のあたりのあの懐かしい
   故郷をなんとか忘れようとして)  「万葉集」334 大伴旅人

このとき大伴旅人[おおとものたびと・天智4〜天平3(665〜731)]は太宰府の長官として、筑紫国(福岡県)に滞在していました。古代のことです。遠隔の地に赴き数年を過ごすことは命を脅かす大事でした。再び都の土を踏めますようにと、生きて帰ることを祈念して赴任したのです。親族知友との行き来ができないことはもとより、貴族の旅人にとって地方の暮らしは都とは較べものにならないわびしいものだったはずです。奈良の都、ふるさと香具山のあたりを思えば胸が締めつけられるように恋しい。もしかすると帰れないかもしれない故郷。思い出せばつらい。そんな心持ちを詠んだ歌です。忘れ草は憂えを忘れる花とされていました。旅人はそれを下紐(下着の紐)に結ぶと言っています。肌に近いところ、心に近い場所に付ければ効き目も強いと期待されたのかもしれません。古代の人は心[ココ(鼓動を表す擬態語)・ロ(場所)]はすなわち心臓であると考えていました。胸の中の脈打つ臓器に考えたり感じたりといった精神の活動もあると信じていたのです。

  人は時に耐えられない悲しみや苦しみを負うことがあります。重い憂鬱に押しつぶされそうになることがあります。そんな時をどのようにしのぐか、どのように越えて行くかという方策の一つが「忘れること」なのでしょう。忘れたい思いを詠む詩歌は数々ありますが、そのよすがとして、忘れ草、また忘れ貝などを詠んだものは珍しくありません。紫式部の祖父にあたる堤中納言兼輔(藤原兼輔[元慶1〜承平3(877〜933)])
の歌集にも「忘れ草を」という題でこんな歌が見えます。

  かた時も見てなぐさまん 昔より憂へ忘るる草といふなり
  (ほんの一時でも見てわが心をなぐさめよう。昔からこの花は憂えを
   忘れる花と言われているそうだ) 「兼輔集」

  忘れ草は都の周辺では住の江に多いとされていたようです。

  道しらば摘みにもゆかむ住の江の岸におふてふ恋忘れ草
  (行く道を知っていたら摘みに行きたいものだ。住之江の岸に生えて
   いるという、つらい恋を忘れられるというあの忘れ草を)
                  紀貫之「古今和歌集」

  忘れたい思いにもいろいろあることでしょうが、「古今和歌集」の時代から近現代に到るまで、恋の苦しみを言うものは尽きません。

  それとなく紅き花みな友にゆづり そむきて泣きて忘れ草つむ
                    山川登美子『恋衣』

恋人がこともあろうに彼女の友人に心を移したのであろうと窺わせます。胸の張り裂けるような失恋の痛みの中、泣きながら、しかし「忘れて」越えようと決意した、という歌です。「忘れたい」と願う中身には実は特別に大切だったものが関わっています。

3 大切なものの在処(ありか)
  再び平安時代に戻ります。最古の仮名日記作品として知られる『土佐日記』は紀貫之[貞観14頃〜天慶8頃(およそ872〜945)]が任地の土佐(高知県)から都へ帰還する船旅を綴ったものです。希有の詩才に恵まれた貫之も藤原氏でなかったこともあって官位には恵まれず、土佐守に任命された時にはすでに60歳を越えていました。任国土佐に貫之は妻子を伴って赴任しましたが、晩年に授かった娘はそのときまだ幼女でした。詳しいことは分かりませんが、その娘は土佐で亡くなり、帰郷の旅にはもういません。『土佐日記』には亡くした愛娘への思いを吐露する記事がおりおり現れ、この思いこそが執筆の原動力の一つではなかったかとも言われています。

  旅の途中に停泊した浜辺に、きれいな小石や桜貝のような貝殻の多いところがありました。美しい小石や貝殻は当時の子供のおもちゃです。その浜を船から見下ろして、思いはもちろん亡き子の上にありました。そこで貫之の妻すなわち亡くした娘の母か歌ったとされる歌は、

  寄する波打ちも寄せなむ 我が恋ふる人忘れ貝下りて拾はむ
  (寄せる波よ、浜辺に打ち寄せてもらいたい。私が恋しいと思って
   いるあの子のことも忘れられるという、あの忘れ貝を。
   私は浜に下りてそれを拾いましょう)

亡き子への思いは尽きず、思えば苦しい。忘れてこの苦しみから逃れられたら、と思う気持ちです。それに対して、続くもう一首は、

  忘れ貝拾ひしもせじ 白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ
  (忘れ貝を拾うことは決してするまい。今はあの子を恋しく思い出すこと
   そのものをあの子の形見と思おう。だから忘れてはならないよ)

というものでした。白玉とは真珠のこと、大切な宝物の比喩で、もちろんここでは亡くした娘を指しています。歌は実際は両方貫之の作品ですが、愛娘を亡くした夫婦の語らいが下敷きにされていることは明らかです。

  忘れたい痛み、しかし娘を失ったことを忘れれば、いとしい娘のかつての存在さえも失われてしまいます。その子は永久にこの世から消えてしまいます。それではいやだと貫之は思ったのでしょう。そう考えた時、そう、貫之の記憶の中にはまだその子が生きていたことに私たちは気が付きます。


  人は人の記憶の中で永遠の命を持っています。人も物事も時とともに過ぎ去るもので、いつまでも握りしめていられるものなど実は何もありません。けれども、目の前にはなくなり、もう二度とこの手に触れることができなくなってしまったものごとでも、記憶があるかぎり無にはなりません。思えばほとんどのものは現実ではなく記憶の中にあるのです。ある時つらく、一度は封印したものの底に失いがたい思い出が閉じ込められていることもあります。「忘れたい」といつか願ったそのことが後には清らかな懐かしい思い出に昇華していることもあります。記憶の中の大切なものを糧にきっと人は生きているのでしょう。

【文例】(※は本文中に記事あり)

[和歌]

※・忘れ草わが紐に付く 香具山の故[ふ]りにし里を忘れむがため
  「万葉集」334 大伴旅人

 ・忘れ草我が紐に付く 時となく思ひわたれば生けりともなし
  「万葉集」3060

※・忘れ草を
  かた時も見てなぐさまん昔より憂へ忘るる草といふなり
  「兼輔集」

※・道しらば摘みにもゆかむ住の江の岸におふてふ恋[こひ]忘れ草
  「古今集」紀貫之

※・それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ
  『恋衣』 山川登美子

 ・思ふてふこと言はぬ人のおくり来し忘れな草もいちじろかりし
  石川啄木
  
 ・五月[さつき]来ぬわすれな草もわが恋[こひ]も今しほのかに
  にほひづるらむ  芥川龍之介「芥川龍之介歌集」

[散文]

 ・追憶は永遠に若さと新しさとをもつてゐる。或時は用心深き戒めをこめて、常に過ぎし日を蘇らせる。
 ・追憶を通じて過ぎた自分を眺めるとき、自己の過去が無為に消えてしまつたのではなく、却つて慕はしく、しみじみと人生の深みそのものに触れてゆくなつかしさを感ずるのである。この故に、追憶の感激を持たない生活をつづけてゐる人は寂しい。
  以上、九條武子「無憂華」より

[訳詩・近現代詩]

※・わすれなぐさ  ヰルヘルム・アレント 上田敏訳 海潮音

   ながれのきしのひともとは、
   みそらのいろのみづあさぎ、
   なみ、ことごとく、くちづけし、
   はた、ことごとく、わすれゆく。


 ・なわすれぐさ  北原白秋「古酒」

   面ぎぬ(巾+白)のにほひに洩れて、
   その眸[ひとみ]すすりなくとも、
   空いろに透きて、葉かげに
   今日も咲く、なわすれの花。
 註:「な・わすれ・ぐさ」。「な」忘れ「そ」で「わすれないでおくれ」を
   表す語法の、「そ」が省略された形。


 ・青き花  北原白秋「青き花」

   そは暗きみどりの空に
   むかし見し幻なりき
   青き花
   かくてたづねて
   日も知らず、また、夜も知らず、
   国あまた巡り歩きし
   そのかみの
   われや、わかうど。

   微妙[いみじ]くも奇[く]しき幻
   ゆめ、うつつ、
   香こそ忘れね
   かの青き花をたづねて、
   ああ、またもわれはあえかに
   人の世の
   旅路に迷ふ。


 ・のちのおもひに

   夢はいつもかへつて行つた
          山の麓のさびしい村に
   水引草に風が立ち 
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午さがりの林道[りんだう]を

   うららかに青[あを]い空には陽[ひ]がてり
          火山は眠つてゐた
    ーーそして私は
   見て来たものを 島々を 波を 岬を
          日光月光[につくわうげつくわう]を
   だれもきいてゐないと知りながら
          語りつづけた……

   夢は そのさきには もうゆかない
   なにもかも 忘れ果てようとおもひ
   忘れつくしたことさへ
          忘れてしまつたときには

   夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
   そして それは戸をあけて
          寂寥[せきれう]のなかに
   星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
  立原道造「萱草に寄す」昭和12年5月刊行


ワスレナグサ19/4/11
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