みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第6回 送別

「泉鏡花集」を開くみや

1 門出に
  「少年よ大志を抱け(Boys, be ambitious.)」
  
  札幌農学校(現北海道大学)に教鞭を執っていたクラーク博士(ウィリアム・スミス・クラーク William Smith Clark、1826年7月31日〜1886年3月9日)の言葉として知らない人がないほど有名になった若者への激励です。農学校一期生との別れに際し、博士が贈った餞(はなむけ)の言葉の一部だということですが、この「少年よ大志を抱け」のあとにどんな言葉が続いていたのかご存じでしょうか。

  Boys, be ambitious. Be ambitious not for money or for selfish
  aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.
  Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”
   「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼ん
   で名声という空しいもののためであってはならない。人間として 当然
   そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために 大志をもて」
              (北海道大学図書館報『楡蔭』No.29収録)

ここまでを知ると、「大志を抱け」の意味合いもよく分かります。ただやみくもに大きな夢や野望を持てという元気な掛け声などではないのです。それははっきりと、艱難辛苦を求めて進む人の生き方を励ますものでありました。私がこの続きの部分の内容を知ったのは2年前、とある中学校の卒業式で聴いた卒業生答辞でした。いよいよ学校の
門を出るにあたっての、15歳の真摯な決意の言葉の中にこれを知り、感銘を受けました。春三月も半ば、今年もまた門出と別れの季節が訪れています。学校の卒業に限らず、さまざまな立場で、新しい道に踏み出す人は多いことでしょう。

2 少年の日から
   8世紀始め、留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂[あべのなかまろ 大宝元年(701)〜唐 大暦5年(770)]は阿倍朝臣船守の子として大宝元年に生まれました。遣唐留学生に任命された霊亀2年(716)、仲麻呂は16歳、今ならば高校生の年ごろです。
  遣唐使の制度は630年から始まり、菅原道真等の提言で停止される838年までに16回、合計5000人を越える使節団を唐へ送っています。各使節団に10人前後の留学生が加わっていました。留学生に選ばれるのは、もちろん国を代表する秀才です。戻って来れば、間違いなく国の中枢に活躍の場は約束されていました。しかし戻って来ることそのものが容易ではありませんでした。今と違って航海は命がけです。遣隋使の時代も含めて約20回の往来で、実に千人が遭難して命を落としています。また仮に往復の行程が無事だとしても、唐は遠く、行き来は限られており、ひとたび海を渡ればそうそう帰っては来られません。20年くらいを過ごすのは珍しいことではありませんでした。滞在期間に客死する場合もあったでしょう。いずれにしても留学は一生をかけるものになるのでした。中国から見れば朝貢以外のものではなかったでしょうが、当時の日本人はそれほどの負担を負い、命の危険を冒しながらも、進んだ中国の文物に憧れ、そこに学んで国を発展させようという建設的な情熱を持っていたのです。
  養老元年(717)春の終わり、多治比県守(たじひのあがたもり)を正使とする第9次遣唐使節団に随行して仲麻呂は難波津から船出しました。国家の留学生として都を発つ時、この16歳(出帆時は17歳)の親族の気持ちは如何でしたでしょう。若者はまさに大志を抱いての旅立ちであったでしょう。その心にエールを贈り、国の建設に大きく尽くすことができるのを本人と共に喜びながら、下の心はやはり泣いていたのではないかと思います。ここで別れた仲麻呂に生きて再び会うことは叶いませんでした。
  
  出航してしてから約半年後、同年の10月に仲麻呂は長安に入りました。唐は隆盛を極めた玄宗皇帝の治世です。官吏を養成する太学(たいがく)に進学し、科挙の試験で難関として知られる進士に及第した仲麻呂は、外国人でありながら皇帝に側近として仕え、厚遇されました。中国名を晁衡(ちょうこう)といいます。唐の開元21年(733)、仲麻呂は遣唐使多治比真人広成(たじひのまひとひろなり・県守の弟)の帰国船で帰ることを願い出ますが、仲麻呂を重く用いていた玄宗皇帝は許可????????n?@??8?????しませんでした(この時、同期の留学生吉備真備(きびのまきび)と玄*(げんぼう*は日扁に方)は帰国し、その後の活躍で周知の通り日本史に名を残しています)。天宝11年(752・天平宝勝4)、遣唐使藤原清河(ふじわらきよかわ)の来た船で、ようやく翌年の帰国が許されました。長安を発ち、帰国船が船出する明州(浙江省寧波)まで来たところで別れの宴が催されました。

    送秘書晁監還日本(秘書晁監の日本国に還るを送る)
                            王維

    積水不可極
    安知滄海東
    九州何処遠
    万里若乗空
    向国惟看日
    帰帆但信風
    鰲身映天黒
    魚眼射波紅
    郷樹扶桑外
    主人孤島中
    別離方異域
    音信若為通

    積水 極む可からず
    安[いづく]んぞ滄海の東を知らん
    九州 何(いづ)れの処か遠き
    万里 空に乗ずるが若し
    国に向かひて惟だ日を看
    帰帆は但だ風に信[まか]すのみ
    鰲身[がうしん] 天に映じて黒く
    魚眼 波を射て紅なり
    郷樹は扶桑の外
    主人は孤島の中
    別離 方[まさ]に異域なれば
    音信 若為[いかん]ぞ通ぜん

  盛唐を代表する詩人王維が詠んだ惜別の詩です(第9句「郷樹扶桑外」にある「扶桑」はもとは東海の日の昇る所にあるという美しい神木を指す言葉であったといいます。やがて我が国日本を指す美名として定着しました)。王維は遠方からやってきた友の帰国にあたり、やはり航海の心配をしています。また、ひとたび別れれば音信もままならないことを嘆いているのが分かります。どんなに心が通う間であっても、当時の現実はそうでありました。しかし、いつの時代でも本当のところは同じでしょう。心の交流には実際に会えるかどうかといった現実を越えたものがあります。それだからこそ、「見ぬ世の友」を得るという幸せもあるのです。

   天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
                  『古今和歌集』406

「百人一首」でも有名なこの歌も、このとき詠まれたものです。仲麻呂ももちろん漢詩を詠み、そのほかに、唐の人には分からないとは思いながら、心が止まずつい和歌を詠んだ。通訳されて一同が感嘆した、ということが、この歌を語る説話にあります。三笠山には留学生が渡航前に参拝する場所がありました。故国を離れてすでに35年が経っています。いよいよの出航を前に、暗い夜の空にも月の光にも心は躍ったことでしょう。

  しかし、知られるとおり、仲麻呂は帰還を果たせませんでした。帰国船遭難の知らせが長安に届いた時、唐都の友人はすでに仲麻呂の安否には絶望していました。これも当時の現実としてもっともなことです。

    哭晁卿衡(晁卿衡を哭す)
                李白
    日本晁卿辞帝都
    征帆一片遶蓬壷
    明月不帰沈碧海
    白雲愁色満蒼梧

    日本の晁卿 帝都を辞し
    征帆一片 蓬壷を遶[めぐ]る
    明月帰らず碧海に沈み
    白雲愁色 蒼梧に満つ

  題に李白は仲麻呂が亡くなったと思って声を挙げて泣いたというのです。難破した仲麻呂等はベトナムに漂着し、やがて長安に戻りました。李白、王維等との仲麻呂の交際はのちも親しいものでした。このあと間もなく起きる安禄山の乱に蹂躙され、困苦の時期もありましたが、仲麻呂は唐の高官として要職を歴任し、代宗の大暦5年(770)、かの地で69年の数奇な生涯を閉じました。

3 旅立ちと別れと
    「天の原」の歌に見る仲麻呂の望郷の念を思えば胸は痛みます。けれども、それでもなおこの生涯を見渡してどこか納得のゆく快さがあるとすれば、それは仲麻呂がいつも盛んに眼前のことに対峙したと感じられるからでありましょう。たまたま歴史的な人物であったために、それを窺う材料があって分かり、ややほっとします。   一歩を踏み出せば、離れるもの同士には寂しさもありますが、人にはそれぞれの独立した運命があります。生きている毎日に別れがあるのは自然なことです。

   別るれどうれしくもあるか
   今宵[こよひ]より逢ひ見ぬ前[さき]は何を恋ひまし
                     凡河内躬恒『古今和歌集』399

  「お別れするけれどうれしい。あなたを知る以前は、一人でいるときにいったい誰を恋しいと思ったでしょう」。この歌は実は相手の屋敷を辞去する時のただの挨拶に詠まれた歌です。会おうとすれば明日にも会える距離で詠まれたものですが、別れというものについて、つらい、寂しいというよりこの人に会えたことを幸いとする感じ方は、長い別れの場合であっても、きっと自分の心を慰め、前向きにさせるよい方法になるでしょう。相手が元気に活躍していることを遠くに聞くのも嬉しいものです。心を通わすということは居所の遠近に関係がありません。時に生死もこれを隔てることがないのです。8世紀始め、阿倍仲麻呂の父母も大和の地で、愛しい息子をこの世に得た幸せを思いながらやすらかに命を全うしてくれていたら、とお節介ながら思いめぐらします。

【文例】(※は本文中に記事あり。※漢詩は本文中に書き下し文あり。)

[漢詩]

 ・古詩
   行行重行行
   与君生別離
   相去万余里
   各在天一涯
   道路阻且長
   会面安可知
   胡馬依北風
   越鳥巣南枝
   相去日已遠
   衣帯日已緩
   浮雲蔽白日
   遊子不顧返
   思君令人老
   歳月忽已晩
   棄捐勿復道
   努力加餐飯
   
    行行重ねて行行
    君と生きながら別離す
    相ひ去ること万余里
    各おの天の一涯に在り
    道路阻しく且つ長し
    会面安くんぞ知るべけんや
    胡馬は北風に依り
    越鳥は南枝に巣くふ
    相ひ去ること日に已に遠く
    衣帯日に已に緩し
    浮雲白日を蔽ひ
    遊子顧返せず
    君を思へば人をして老いしめ
    歳月忽ち已に晩[く]れぬ
    棄捐せらるるも復たとは道[い]ふ勿[な]からん
    努力して餐飯を加へよ

 ・離別  唐 陸亀蒙(晩唐 ?〜881)
   丈夫非無涙
   不灑離別間
   杖剣対尊酒
   恥為游子顏
   蝮蛇一螫手
   壮士即解腕
   所思在功名
   離別何足歎
   
    丈夫[じやうふ]涙無きに非ず
    灑[そそ]がず離別の間に
    剣を杖つきて尊酒に対し
    游子[いうし]の顏を為すを恥づ
    蝮蛇[ふくだ]一たび手を螫[さ]せば
    壮士即ち腕を解く
    思ふ所は功名に在り
    離別何ぞ歎くに足らん
    
 ・送元二使安西(元二の安西に使ひするを送る) 王維
   渭城朝雨潤軽塵
   客舎青青柳色新
   勸君更盡一杯酒
   西出陽関無故人

    渭城の朝雨 軽塵を潤[うるほ]し
    客舎青々として柳色新たなり
    君に勧む更に尽くせ一杯の酒
    西の方陽関を出づれば故人無からん

 ・贈汪倫(汪倫に贈る) 李白
   李白乘舟将欲行
   忽聞岸上踏歌声
   桃花潭水深千尺
   不及汪倫送我情

    李白舟に乗りて将[まさ]に行かんと欲す
    忽[たちま]ち聞く岸上踏歌[たうか]の声
    桃花潭[たうくわたん]の水[みづ]は深さ千尺
    及ばず汪倫[わうりん]が我を送るの情に

※・送秘書晁監還日本 王維
   積水不可極
   安知滄海東
   九州何処遠
   万里若乗空
   向国惟看日
   帰帆但信風
   鰲身映天黒
   魚眼射波紅
   郷樹扶桑外
   主人孤島中
   別離方異域
   音信若為通

※・哭晁卿衡 李白
   日本晁卿辞帝都
   征帆一片遶蓬壷
   明月不帰沈碧海
   白雲愁色満蒼梧

[和歌]

 ・雲居[くもゐ]にも通ふ心の遅れねば別[わか]ると人に見ゆばかりなり
  清原深養父『古今和歌集』378
  
※・別るれどうれしくもあるか
  今宵[こよひ]より逢ひ見ぬ前[さき]は何を恋ひまし
  凡河内躬恒『古今和歌集』399

[近現代詩・訳詩]

 ・蛍の光
1   蛍の光り 窓の雪
   書[ふみ]読む月日 重ねつつ
   いつしか年も すぎのとを
   あけてぞ今朝は 別れゆく
   
2   止まるも行くも 限りとて
   かたみにおもふ 千万[ちよろづ]の
   心の端[はし]を ひとことに
   幸[さき]くとばかり 歌ふなり
     『小学唱歌集(初)』明治14年(1881)
     
 ・勧酒(酒を勧む) 于武陵
   勧君金屈巵
   満酌不須辞
   花発多風雨
   人生足別離
   
    君に勧む金屈巵[きんくつし]
    満酌辞するを須[もち]ゐず
    花発[ひら]いて風雨多し
    人生 別離足る

   コノサカヅキヲ受ケテクレ
   ドウゾナミナミツガシテオクレ
   ハナニアラシノタトヘモアルゾ
   「サヨナラ」ダケガ人生ダ
     訳詞:井伏鱒二『厄除け詩集』昭和12年(1937)
   
 ・道程
   僕の前に道はない
   僕の後ろに道は出来る
   ああ、自然よ
   父よ
   僕を一人立ちにさせた広大な父よ
   僕から目を離さないで守る事をせよ
   常に父の気魄を僕に充たせよ
   この遠い道程のため
   この遠い道程のため
     高村光太郎『道程』昭和15年(1940)


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