2011年4月13日

関東大震災と天来

信濃川と石碑s.jpg
大正12年、関東大震災が勃発したとき、比田井天来は長野県にいました。書生だった田中鹿川さんの手記によると、たいへんな思いをして東京に戻りました。

丸三日かけて鎌倉に帰ると、家族は無事でしたが、家は倒壊していました。天来と小琴は長野県上田に疎開します。
「あれほど恐れていた地震のショックと家へ帰り着くまでの心痛がもとで、その後数年にわたって重い神経衰弱をわずらった」と、天来の長女、ゆり子は書いています。

そんな天来のもとに一通の手紙が届きました。石碑の揮毫依頼です。

米どころ、越後平野をうるおしてきた信濃川は、いったん氾濫すると多くの死傷者を出し、人々を苦しめてきました。さまざまの治水工事が行われましたが、明治3年、「大河津分水計画」が始まります。工事は50年以上の長期に及び、100名以上の殉職者を出しましたが、大正11年に通水に成功、13年に悲願の完成を果たしました。
これを記念して、巨大な石碑が計画され、天来に揮毫を依頼したのです。

信濃川と石碑.jpgまるで信濃川を見下ろすように、その石碑は建っています。高さ7.27m、幅2.5メートル。日本で一番大きい石碑かもしれません。

信濃川碑拓本.jpg遠くからでも読みやすい、堂々とした楷書です。

信濃川碑.jpg
全部で150字以上の長文です。大災害に立ち向かった人々の志を継いで、一糸乱れず書き上げた天来。困難の時期にあったにもかかわらず、その精神力は驚嘆にあたいします。

私たちに、今回の大災害にくじけず、しっかりと仕事をしなさいと教えてくれているような気がしませんか。

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