藤原佐理(ふじわらのすけまさorさり 944〜998)は「三跡」の一人に数えられる能書家として広く知られています。

 

奈良時代から平安時代にかけて興隆した日本の書は、遣唐使によってもたらされた中国の書を摂取することによって展開しました。

その代表が「三筆」と称される空海嵯峨天皇橘逸勢です。

 

遣唐使はやがて廃止となり、日本独自の書風が熟成されていきます。

こうして登場するのが「三跡」で、小野道風、藤原佐理、藤原行成を指します。

彼らは三筆の中国風の書に対して、「和様」と呼ばれる日本独自の書風を作り上げました。

 

小野道風の代表作である屏風土代や玉泉帖、あるいは藤原行成の白氏詩巻や本能寺切は、どれも漢詩を書いたもので、柔和で穏やかな趣をもっています。

まさに「和様」の典型だといえるでしょう。

それに対して、今に伝わる佐理の作品は「詩懐紙」以外は書状です。

これらは「和様」というより、中国の王羲之や懐素などの草書に近く、奔放でダイナミックな印象を受けます。

 

離洛帖

 

「シリーズ・書の古典」の最新刊『離洛帖他』には、佐理の書が五点収録されています。

 

 

1 詩懐紙(しかいし)

藤原佐理 詩懐紙

 

藤原佐理 詩懐紙

詩懐紙は佐理が26歳の時の書で、祖父、太政大臣実頼が主催した詩歌会で書かれました。

この作品は現存する最古の懐紙作品です。

「和様」と呼ばれる日本独特の書風で、おだやかでゆったりとした筆法とどっしりとした字形に特徴があります。

 

 

2 恩命帖(おんめいじょう)

藤原佐理 恩命帖

 

藤原佐理 恩命帖

恩命帖は佐理が39歳の時の書です。

儀式で使う矢が届かなかったことに対する申し開きをし、あわてて善後策を提示する手紙です。

冒頭部分は本文を書いた後に書かれた添え書きで、筆を依頼されたことに関するもの。

「詩懐紙」に見られる和様の書風とはまったく異なった書きぶりです。

唐時代の「狂草」の影響があるとも言われています。

 

 

3 去夏帖(きょかじょう)

藤原佐理 去夏帖

 

藤原佐理 去夏帖

佐理40歳の書です。

しばらく都を離れている間に邸の垣根や壁が傷んでしまったが、修繕する費用が作れないので、丹波守を通して佐理の叔父、関白頼忠に助けを求める手紙です。

 

 

4 離洛帖(りらくじょう)

藤原佐理 離洛帖

 

藤原佐理 離洛帖

離洛帖は佐理が48歳の時の書です。

佐理は九州地方を直轄する太宰府の次官に任命されますが、これに不満をいだいていたらしく、摂政・藤原道隆に対して挨拶をせずに出発しました。

旅の途中、これを後悔して、挨拶を忘れたとりなしを甥の藤原誠信に頼む手紙が「離洛帖」です。

三行目までは穏やかですが、次第に興が乗り、自由奔放、ダイナミックな筆致で終わっています。

現代の書家に大きな影響を与えている作品です。

 

 

5 頭弁帖(とうのべんじょう)

藤原佐理 頭弁帖

 

藤原佐理 頭弁帖

佐理55歳、死去の4ヶ月前の書です。

頭弁(藤原行成)を介して奏上したことが滞っていることを嘆き訴えた手紙。

前の手紙とは異なりじっくりと書かれた書で、重厚な趣があります。

 

 

佐理は名家に生まれ育ち、また能書家として高く評価され、大鏡にも「日本第一の御手」と称賛されています。

しかし、同じ大鏡に「怠け者で泥の如き人」とも書かれており、今に伝わる書状も、謝罪や経済的困窮を訴えるものなど、ちょっと情けない内容です。

今でいうと、才能がありながら気まぐれで、実務能力に欠ける芸術家肌の人ということになるでしょうか。

 

同じ三跡に名を連ねる小野道風や藤原行成は漢詩を書いた作品が残っており、書状はあまりありません。

佐理は扁額や屏風の色紙形などを書いたといわれますが、詩懐紙以外は書状ばかりが伝わっています。

 

佐理が書いた漢詩は和様の書だったのでしょうか。

あるいは、道風や行成が書いた書状には、狂草の趣があったのでしょうか。

 

 

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 編者−高市乾外・現代語訳−河野貴彦・図版監修−高橋蒼石

全文収録・骨書・現代語訳・字形と筆順の解説・臨書作品にふさわしい部分の紹介

 

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