新しいブログが始まりました。
一人の執筆者が担当するブログではなく、いろいろな分野の方にご執筆いただく「特別寄稿」です。
記念すべき第一回のテーマは「日本の前衛書の光芒」です。
1945年、敗戦によって、日本文化は大きく変貌しました。
すべてが欧米化し、伝統文化が忘れ去られていく。
そんな危機感の中で、書に新しい運動が沸き起こります。
その一つが「前衛書」(墨象)です。
「文字を書かない書」「文字を書いていても不可読の書」「書ではなく絵画とされる書」などと評されました。
「これは書ではない」と、伝統派から攻撃を受けながら、活動は今も続いています。
この「前衛書」を、その誕生から今に至るまでの展開をまとめたのが「日本の前衛書の光芒」です。
執筆者は高橋無有氏です。
専門は、ヘーゲルを中心とする西欧哲学思想。
比田井南谷、比田井小葩のホームページを作ってくれましたが、今回は初めての署名入りの論考です。
哲学者が前衛書をいかに料理するのか、じっくりお読みいただきたいと思います。
さて、「日本の前衛書の光芒」には、「前衛書」に先立って、比田井天来が「象(しょう)」という考えをもっていたことが紹介されています。
「象」とは、「⽂字を素材にしないで、書らしい⼀つの新しいもの」(上田桑鳩)であり、「文字を離れた書」(比田井南谷)です。
伝統的な作品を書いていた天来にこのような思想があったことに驚かれる方も多いでしょう。
果たして天来自身の文章に、これを裏付けることばがあるのでしょうか。
大正12(1923)年、天来は絵画と比較して、書の特徴はどこにあるかを述べています。
書における性情表現の方法は、主として筆意の変化によるのである。
筆意変化の根本は方円、曲直、細大、渋滑、遅速、潤渇の十二法で、それが峻厲、重厚、紆余、平正、清楚、醇朴、古拙、流麗、沈着、活動、滋潤、淡白の感じとなり、さらに以上のごとくあい反したるものが適当なる配合をもってたがいに交錯するときは、ここにはじめて書道における芸術味を発揮して変化百出の妙を呈し、あるいは雄麗となりあるいは瑰奇となり、あるいは沈鬱、あるいは飛動、大を窮め速を窮め、微に入り細に入り、その妙、測るべからざるにいたるのである。
さらに、構成の部分に属する長短遠近の四法をもってこの十二法に加うるときは、変化の範囲はいっそう拡大し、性情発揮の領域はほとんど無際限になるのである。
(「書の筆意−芸術書と実用書」『現代書道の父−比田井天来』)
天来は書家であると同時に、文字学者でもありましたから、文字学に関する論考はたくさん残っています。
晩年の漢字整理事業へと続くこれらの研究は、天来を語る上で見逃すことはできません。
しかし、書の芸術性を語るときに登場するのは「筆意」です。
「絵画」における表現方法は「形」や「色」ですが、書の場合は違います。
「線」こそが、書表現の本質であると考えたのです。
ここから「文字ではない書」すなわち「象」という思想が生まれるのは自然な道筋であると思います。
そして、比田井南谷が「電のヴァリエーション」を書いた時、心に浮かんだのは父、天来の「行き詰まったら古(いにしえ)に還れ」ということばでした。
日本における「前衛書」は、西欧美術の影響ではなく、伝統的な「書」の延長上に誕生したのです。
おおいに書道を盛んにせんとするには、真に書の味を解した者で閑暇のある者は、語学でも勉強し、まずもって、書道料理を西洋人に食わせてみるに限る。
西洋の美術家もいまや行き詰まりで困っているところへ、趨新的欲望が熾烈にあるから、書の筆意を応用すれば一生面を開くにはもってこいだとすぐに考えつくに相違ない。
一度味わってみたら、こんな旨い物があったかと目をまるくするだろう。
そこで日本の画家はお流れ頂戴とでかけていく。
そうなると、古いこともすぐに新しいということになる。書道を盛んにするにはこれにかざる。
若い人達はおおいに勉強してひとつやってみてはどうか。
世界的芸術に一新紀元を画せんとするには、東洋書道の真髄を開放して、絵画彫刻はもちろん、建築に図案に、骨子材料の寓意的変化ならびに形体組織の奇構を応用させるにかざる。
物と物とを区画するに比較的邪魔物ならざる線をもって、遺憾なく芸術家その人の性情を仮託しうることの道を、東洋書画においてむかしから開拓されていたということは、東洋芸術の誇りであらねばならぬ。
(「書の筆意−芸術書と実用書」『現代書道の父−比田井天来』)
天来にとっての「筆意」は書芸術の本質であり、「文字を書く」という制限を超えて、あらゆる造形芸術を豊かにする表現方法だったのです。
比田井天来書 佐久市立天来記念館蔵