第10回 比田井天来・小琴顕彰 佐久全国臨書展が始まりました。
会場 佐久市立近代美術館
長野県佐久市猿久保35-5 Tel-0267-67-1055
期日 11月20日(土)〜12月12日(日)
開館時間 10:00〜16:30
休館日 11月22日 24日 29日 12月6日
会場の「佐久市立近代美術館」です。
いつもは企画展や、収蔵する美術品中心の展示が行われますが、この期間は臨書展の作品が並びます。
1Fの第一展示室には比田井天来と小琴の作品、当番審査員の方々の作品が展示されています。
左は高さ2メートルを超える比田井天来の作品です。
この作品が書かれた大正5年(1916)、天来は内閣教員検定委員会臨時委員となり、文検(旧制中等学校の習字科教員になるための試験)に古典の鑑識と臨書を加えました。
またこの年から二年間、鎌倉建長寺内正統院にこもって筆法の研究を行います。
素朴な味わいを残しつつ伸びやかで力強いこの作品は、10回という節目を迎えた臨書展にふさわしいと言えるでしょう。
小琴の仮名は晩年の作で、漢字作品に負けない勁さと高い響きを感じます。
大正10年から刊行が開始された古典全臨集「学書筌蹄(がくしょせんてい)」も見ることができます。
田宮文平先生がご提供くださったものです。
では、展示会場(2Fと3F)へ移動しましょう。
3Fのガラスケースには天来賞が展示されています。
通常の天来賞は3点なのですが、今年は第10回展なので特別に5点選ばれました。
左から、王献之「地黄湯帖」、光明皇后「楽毅論」」、「木簡」、褚遂良「雁塔聖教序」、顔真卿「祭姪文稿」の臨書です。
審査のときには知らなかったのですが、5点のうち4点は長野県の方でした。
漢字審査員10名の中で長野県の方は1名でしたから、厳正な審査であることがわかりますね。
ちなみに一般部と高校生部の審査方法は、各審査員がすべての作品を採点し(芸術性と原本の理解度にわけて、それぞれ5点満点)、翌日、審査会場に点数が高い順番に展示して、話し合いで決定します。
誤字脱字はもちろんのこと、文章の切れ目が間違っていたり、落款の書き方がおかしい作品は特別賞の対象にはなりません。
かな作品が展示されています。
ガラスケースの下に広げられているのは巻子の作品です。
かな作品の場所はガラスが反射してうまく撮影できませんでした。
近いうちにホームページでご紹介しますので少々お待ち下さい。
第8回までの特別賞はこちら。
「臨書」とは、書の古典を手本にして書くこと。
この臨書展の漢字部門のお手本は、中国は唐時代以前、日本は平安時代以前の古典に限られていますが、それでも膨大な数におよびます。
さらに、臨書する人によって趣は変わりますから、作品はまことに多彩で、見ごたえのある展示になっています。
こちらは高校生の臨書作品。
すばらしい迫力です(大人も負けちゃう)。
小学生と中学生の臨書は半紙です。
出品料が無料で、すべての作品が近代美術館に展示されるので、たくさんの生徒さんが家族連れで訪れてくれました。
楷書が中心ですが、甲骨文や金文の臨書もあります。
原本が目に浮かぶような、生き生きとした臨書も目立ちます。
先生のお手本だと上手に書こうと意識しますが、臨書だと、そういう気持ちが薄れるのかもしれませんね。
楽しい!
小学校1年生から五年生までの天来賞です。
空間が狭いので、一度に撮影できるのは5点だったので、こうなりました。
左から、虞世南「孔子廟堂碑」、「賀蘭汗造像記」、虞世南「孔子廟堂碑」、鄭道昭「論経書詩」、顔真卿「多宝塔碑」の臨書です。
「山」の線の素直さ、造像記の特徴をとらえた「母」、「雲峰」も原本の雰囲気が再現されています。
こういう作品を見ると、嬉しくなっちゃいます。
半紙ですが、天来賞だけは表具してもらえます。(無料です)
20日の午後1時から授賞式でした。
写真は佐久市長、栁田清二さんのご挨拶。
特別賞のみの表彰でしたが、遠くからもたくさんの方がお集まりくださいました。
近代美術館賞を受賞した小学生のみなさん。
おめでとうございます。
今どんな気持ちか聞いてみたい・・・。
例年だとこの後、市長と審査員による揮毫パフォーマンスがあるのですが、今年は残念ながら中止です。
来年は新型コロナがおさまり、パフォーマンスや天来祭りができますように!
毎日新聞(夕刊・東京版)で紹介してくださいました。
https://mainichi.jp/articles/20211202/dde/014/040/002000c
記事の一部を引用します。
それでは、なぜ「臨書」か?
<書を学ぶ者は、先生につくのもよいが、先生の流儀に固着してしまってはよくない。先生についても、その将来の手本とするものは古法帖および古碑版でなければ大成することはできない>(天来「書の趣味」)
学書の要諦をこれほど明快に指摘した言葉は少ないように思われる。つまり、師の手本をただまねるのではなく、歴史の審判を受けて残ってきた書の古典とじかに向かい合い、自らの頭で考えることの大切さは臨書を通じてこそ養われるという考えが天来の主張だった。
すごい!
ありがとうございました!