日本書道の最高峰として知られる「風信帖(ふうしんじょう)」。
最澄に宛てた空海の手紙です。
日本仏教の根幹を築き上げた二人の間に、どんなドラマがあったのでしょう。
804年7月、四隻の遣唐使船が出港しました。
第二船には最澄が、第一船には7歳年下の空海が乗っていました。
最澄は767年、近江国(現在の滋賀県)に生まれました。
14歳で得度(とくど)、19歳で具足戒を受けて比叡山に入り、25歳で修行入位という僧位を受けます。
36歳のとき、高雄山寺で数ヶ月にわたり、体系的な中国仏教の天台教学の講義をしましたが、これが桓武天皇の知るところとなり、遣唐使となることに決まりました。
空海は774年に讃岐国(現在の香川県)に生まれました。
18歳頃に京都に出て大学に入り、20歳の頃、山岳宗教の行者となったと言われていますが、遣唐使船に乗るまでの経緯も不明で、正式な僧侶になったのは、乗船の三ヶ月前というタイミングでした。
最澄は中国に着くと、都である長安(西安)へは行かず、天台教学の中心地、天台山(浙江省)で教学をおさめ、さらに禅と戒律を学習します。
翌年(805)、帰国前の一ヶ月で密教を学び、帰国。
6月に対馬に着き、7月に「将来目録(しょうらいもくろく)」を提出し、9月には日本初の灌頂(かんじょう)を行いました。
一方、空海は中国に着くとすぐに長安に入り、梵語(サンスクリット語)を学び、その後、真言密教の第一人者である恵果(けいか)を訪ねます。
恵果は、数多くの弟子の中で、日本から来た空海を後継者と定めて法を伝授し、灌頂を行い、写本や曼荼羅(まんだら)、法具を用意した後、他界します。
入唐時は無名だった空海ですが、一年半後、密教の第一人者となったのです。
20年と決められた留学期間を2年に短縮して、空海は帰国の途につきました。
806年秋、空海は太宰府に到着し、10月22日付けで「請来目録(しょうらいもくろく)」を奉呈しますが、入京の許可が降りません。
809年、ようやく入京できた空海に、最初に接触したのは最澄でした。
空海の「請来目録」を見て、自らがおさめた密教が不完全であったことを知り、空海の書籍を借用したいと考えたのです。
空海が最澄に宛てた手紙「風信帖(ふうしんじょう)」は、二人の出会いから一年後、810年頃(注)に書かれました。
風のような便り、雲のように美しい書が、天から舞い降りてきました。
拝見し、雲霧が消散するように、私の気持ちも晴れてまいりました。
ゆるぎのない、自信に満ちた運筆です。
行書ですが、直線が多く、余白が輝いています。
中国の書を根幹としつつ、簡素な響きの中に、日本独特の端正な佇まいを感じます。
中国にわたって最先端の仏教を学び、日本へ帰ってきた最澄と空海。
二人が協力して、これからの日本仏教を作り上げていくのだという高揚感がこの書にあふれています。
空海は37歳、最澄は7歳上の44歳でした。
812年、空海は高雄山寺で灌頂を行います。
その時の空海の手控えである「灌頂記(かんじょうき)」には、灌頂を授けた人々の名前が書かれています。
金剛界(こんごうかい)灌頂と胎蔵(たいぞう)灌頂、それぞれの先頭に、最澄の名前があります。
最澄は比叡山延暦寺で大乗戒壇を建立して、天台法華経を確立しようとしていました。
しかし、奈良東大寺をはじめとする旧仏教側から非難攻撃にさらされました。
そこで、中国から本格的な密教をもたらして脚光を浴びている空海から、灌頂を受けることにしたのです。
最澄が、空海のもとで修行を続ける弟子、泰範(たいはん)に送った手紙「久隔帖(きゅうかくじょう)」。
誠実な人柄を感じさせる優品です。
しかし、書表現そのものに対する情熱は感じられません。
一方空海は、全身全霊を書にかけている様子が作品から伝わってきます。
学究的態度で密教に臨んだ最澄に対して、空海は実践を重んじました。
密教の本質は「行」であり、自らの身体を用いて体得するものである。
それを理解せずに書物を読んでも意味がない。
空海は最澄が望んだ書物の貸し出しを断り、交際は絶たれたのです。
それではいよいよ、「風信帖」を臨書しましょう。
インターネットは画面が横長なので、冒頭部分を二文字ずつ、横につなげてみました。
端正な美しさです。
まずは「風」。
王羲之(おうぎし)が書いた「風」と、よく似ています。
字形の特徴を分析してみましょう。
概形は、どれもほぼ正方形、あるいはわずかに縦長。
二画目は短い横画から左下に方向を変え、弓なりにしなりながら右下に進み、最後に大きく跳ね上げます。
「しなり」の最左端と、はねの最右端(緑の補助線)の距離にご注目ください。
唐時代の楷書名品に書かれた「風」です。
欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は厳しい字形で、「風信帖」と共通した構造をもっています。
虞世南「孔子廟堂碑」は、おっとりとのびやか。
褚遂良「雁塔聖教序」の右下方への画は特に長く伸びてから跳ね上げています。
冒頭部分八文字の概形と注目したい部分を示しました。
「風」 「しなり」の構造のほか、内部の「虫」の位置の低さに注目してください。
「信」 旁の三画目の始まり(赤い◯の位置)はかなり低い。
「雲」 青で囲った二つの部分、上半部より下半部のほうがわずかに右です(重畳法・ちょうじょうほう)。
「書」 同じく重畳法。上部より下部が左にこないように注意しましょう。
二画目は空間をつぶさないために引き締めた細めの線で。
「自」 最初の太い縦線がゆるいカーブを描き、右の縦画がこれを受けています。
「天」 三画目までは左半分におさまっています。
「翔」 二画目起筆部は、左右真ん中やや左よりの高い位置から始まります。
三本ある縦画は、それぞれ傾きが微妙に異なっていることにも注目しましょう。
「臨」 旁はかなり高い位置から入り、左右中央の右半分におさまっています。
さて、現代社会では、文字といえば活字ですね。
風信帖を活字にしたらどうなるでしょう。
現代社会では、多くの人の意識に「活字」のイメージがしみこんでいます。
しかし、「活字」は限られたスペースで大量の情報を伝えるために工夫されました。
書きやすいわけでもなく、美しいわけでもないのがおわかりだと思います。
それとは別に、書きやすく、かつ美しく見えるように発達してきたのが「筆写体(ひっしゃたい)」。
中国や日本の書の名人たちによって展開してきました。
美しく、堂々として見る人に迫る、風信帖の文字。
プレゼンに使ったら、間違いなく注目を集めるでしょう。
この優れた伝統を多くの人々とわかちあい、後の世代に伝えていきたいと心から願っています。
(注)
「風信帖」の書写年代について、従来は812年頃(中田勇次郎)、812年〜813年頃(神田喜一郎)とされてきました。
この頃が最澄と空海の交流がもっとも深かったというのがその理由です。
しかし、812年に空海が最澄に授けた灌頂は入門儀式であり、密教の修行の完成した者に授けられるものではありませんでした。
また、空海は最澄に対して、三年間密教修行に専念すべきだと進言したとされています。
すなわち、この年には、空海と最澄の信頼関係はゆらいでいたと考えられるので、文章内容から「風信帖」「忽披帖」は810年頃、「忽恵帖」は812年頃に書かれたとする説に従いました。
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