みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第34回 夢:五月・夢・夢路・うつつ

「泉鏡花集」を開くみや

20.5.14 東京都清瀬市

   五月の日
   草を踏み
   花を持ち
   踊りませう

   葉かげ
   胸を張り
   腕をあげ
   踊りませう
           フランス民謡(小林愛雄訳)



  今までのところどうも天候のよくない年のようです。思い出すのは4月の末、まだカレンダーに数日を残した頃でしたが、 月の降雨量が観測始まって以来の多さだとニュースになりました。いったいいつからの記録なのかと聞いていたら、 何と130年あまりも遡るのいうので驚きました。今年の4月は近来130年のうちで最も雨降りであったということなのでした。 この夏は多分水不足の心配はないでしょうが、降りすぎて具合の悪いこともあるのでは。月が変わりましたが、今度は寒い。 立夏を過ぎてから幾日も暖房を使う年は寒がりの私にも希なことです。光り輝く緑、初夏の明るい、 もちろん十分暖かな日の光を夢に見る五月前半でした。


20.5.6 東京都清瀬市

  ところで、「夢見る」と一語の動詞で使うときは「願う」とか「望む」「憧れる」といった意味とほとんど違いがありません。 夢の中身はよいことばかりですが、実際睡眠中に見る夢はもちろんよいことばかりのはずもなく、私たちはそれをもっともなことと 理解しています。というのも、今日の私たちはこの夢を自分自身の深層心理が見せるものと考えるからです。心の底に蓄えている さまざまな記憶、また自分でも意識しないものも含めて、胸中にある願望や不安や恐怖などがさまざまに作用し合って夢に結ばれる のだと了解しています。しかし古代の日本人は夢の世界を、起きて活動している時のこの世とは別のもう一つの独立した世界だと 考えていたようです。


20.5.2 東京都清瀬市柳瀬川

  古代の人が夢をどのようなものと考えていたか、具体的に分かることが平安時代の和歌からたくさん見つかります。 中でも有名なものは『古今和歌集』に見える小野小町の一連の恋歌です。

  思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを(552)

  うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき(553)

  いとせめて恋しきときは むばたまの夜の衣を返してぞ着る(554)

  これを見ると、思いながら寝たから恋人が夢に見えたのだろうという考え方は、今日と同じに、夢を自分の深層心理に由来 するものと言っているように読まれかねませんが、そういう意味ではないようです。その理由はあとに送って、まず次の歌から 見ましょう。
  「うたた寝していたら恋しい人が夢に現れた。その時から、私は夢というものを頼りにするようになりました」当時は夢に 見えるものは見る側の意識とは無関係に、夢に見えたものに意志があってそこに現れるのだと考えられていたようです。 思っていても思うままに会えるわけではない恋人、その夢は相手も自分を思っているという証と受け取られたのです。


20.5.15 東京都清瀬市柳瀬川

  また、夢で会うおまじないも時には試みられました。三首目の歌はそれを詠んでいます。「たいそう胸に迫って恋しいときは、夜着の衣を裏返しに着て寝ることですよ」この歌に見るように、寝間着を裏返して着たことが知られています。ただしこのおまじないは相手を夢に見るのではなく、自分が相手の夢に出現するための方法であったらしく、『万葉集』では同じ目的で着物の袖を折り返すと言うことが行われていました。

  吾妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ白栲の袖折り返ししは夢に見えきや(2812)
(あの人が恋しくて仕方がないので、袖を折り返して寝たのは、あの人の夢にちゃんと見えただろうか)

  わが背子が袖返す夜の夢ならし まことも君に逢へるがごとし(2813)
(あの方が袖を折り返してお寝みになった夜の夢でしょう。本当にお逢いしたように思われました)



  これらの歌は明らかに袖を折って寝た方が、人の夢を訪れると考えて読まれています。
  そこで先の小町の歌に戻りましょう。「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ」は、今日の理解のように「思いながら寝た」という 小町の心理の問題なのではなく、「思いながら寝たので、きっとあの人も私のことを思ってくれて、夢に出てくれたのだろう」という 意味であろうと見当が付くのです。


20.5.12 東京都清瀬市柳瀬川

  平安時代の物語や日記にはよく夢のお告げの話が出て来ます。知らせを的確に受け止めて、幸運を掴んだり、難を逃れたりするのでしたが、そうした予言や警告を発して来るのはよく知る肉親であったり、それも既に亡くなった人であったり、また神仏であったりします。やはり、こちらを気遣ってくれる相手の方が、強い意識をもってこちらの与り知らない真実を送って来るのだと信じられました。夢の知らせは異界から届けられる神仏や肉親の愛情と受け止められたのです。


20.5.15 東京都清瀬市柳瀬川

  そうした事情で、古代の人は夢をまことに重大なものと捉え、夢から正しいメッセージを受け取ろうと大真面目に努力しました。「夢解き」という、夢の分析屋が職業として存在したのはその一つの現れでしょう。訳の分からない夢を「夢解き」に解き明かしてもらい、もし悪い夢であったときには深刻な問題でした。法隆寺の夢殿に在(ま)す夢違え観音は、その御名のとおり、よくない夢をよい夢に替えて下さるという仏です。
  この夢が自分の意識の内部で完結するものではなく、全く別世界に属するものと考えられていた時代には、夢はそのように取り替えがきくものでもあったのです。


20.5.15 東京都清瀬市

  さて、「夢にみた」爽やかな晴れた日がやってくると、雨に洗われた緑の鮮やかさ、葉陰のみずみずしさは、なんとも美しい初夏の輝きです。梅雨までのひとときは本来一年で最も爽快な季節です。


20.4.25 東京都清瀬市


【文例】

[和歌]

・思ひつつ寝ればや人の見えつらむ
 夢と知りせば覚めざらましを
     小野小町『古今和歌集』552


・うたたうねに恋しき人を見てしより
 夢てふものは頼みそめてき
     小野小町『古今和歌集』553


・いとせめて恋しきときは
 むばたまの夜の衣を返してぞ着る
     小野小町『古今和歌集』554


・命にもまさりて惜しくあるものは
 見はてぬ夢の覚むるなりけり
     壬生忠岑『古今和歌集』609


・世の中は夢か現[うつつ]か
 現とも夢とも知らず ありてなければ
     詠み人知らず『古今和歌集』942


・仏は常に在[いま]せども 現[うつつ]ならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁[あかつき]に ほのかに夢に見え給ふ  
            「梁塵秘抄」巻第二 法文歌 佛歌(26)



[近現代詩・訳詞]

・よくみるゆめ  ポオル・ヴェルレエヌ
         『海潮音』上田敏

  常によく見る夢乍[なが]ら 奇[あ]やし、懐かし、身にぞ染む。
  曾[かつ]ても知らぬ女[ひと]なれど、思はれ、思ふかの女よ。
  夢見る度のいつもいつも、同じと見れば異なりて、
  また異ならぬおもひびと、わが心根や悟りてし。

  わが心根を悟りてしかの女の眼に胸のうち、
  噫、彼女にのみ内証の秘めたる事ぞ無かりける。
  蒼[あを]ざめ顔のわが額、しとどの汗を拭ひ去り、
  涼しくなさむ術あるは、珠の涙のかのひとよ。

  栗色髪のひとなるか、赤髪のひとか、金髪か、
  名をだに知らね、唯思ふ朗らか細音のうまし名は、
  うつせみの世を疾く去りし昔の人の呼び名かと。

  つくづく見入る眼差は、匠[たくみ]が彫[ゑ]りし像の眼か、
  澄みて、離れて、落居たる其音声の清[すず]しさに、
  無言の声の懐かしき恋しき節の鳴り響く。


・歌の翼に  ハイネ
       久野静夫訳詞

1 歌の翼に あこがれ乗せて
  思いしのぶ ガンジス
  はるかの かなた
  うるわし花園に 月は照りはえ
  夜の女神は 君をいざなう
  夜の女神は 君をいざなう

2 すみれの花は ささやく 星に
  ばらは ほほえみて
  ほのかに 香る
  うるわしの花園に 鳥はたわむれ
  夜の女神は 君をいざなう
  夜の女神は 君をいざなう

3 今宵(こよい)も憩わん 椰子(やし)の葉陰
  ともに語りて 楽し夢見ん
  楽し夢見ん 楽し夢



・祭の宵  フランス民謡
      小林愛雄訳詩
 
一 五月の日
  草を踏み
  花を持ち
  踊りませう

二 葉かげ
  胸を張り
  腕をあげ
  踊りませう


・夢路より(夢見る人) 津川主一訳詞

1 夢路より かへりて
  星の光 仰[あふ]げや
  さわがしき 真昼の
  業[わざ]も今は 終はりぬ
  夢見るは 我が君
  聴かずや 我が調べを
  生活[なりはひ]の 憂ひは
  跡もなく 消えゆけば
  夢路より かへりこよ

2 海辺より 聴こゆる
  歌の調べ 聴かずや
  立ちのぼる 川霧
  朝日受けて 輝(かが)よう
  夢見るは 我が君
  明けゆく み空の色
  悲しみは くもゐに
  跡もなく 消えゆけば
  夢路より かへりこよ

  ※フォスターの歌曲で知られる。



・ほととぎす  近藤朔風作詞

  おぐらき夜半[よは]を
  独りゆけば
  雲よりしばし
  月はもれて

  ひと声 いずこ
  鳴くほととぎす
  見かえる瞬間[ひま]に
  姿消えぬ

  夢かとばかり
  尚もゆけば
  またも行手[ゆくて]に
  暗[やみ]はおりぬ


・ゆめうつつ   国木田独歩

  昨夜の夢のあやしさを
  語りつくさんすべもがな
  ゆくへも知らずさすらふは
  我が身か、あらず、影なるか、
  暗きをたづぬるをのこあり

  仰げば空の星消えて
  常世の闇の光なし
  とばかりありて星一つ
  とばかりありて二つ三つ
  輝き出でぬくれなゐに
  見る間たちまちむらさきに
  我が身か。あらず、影なるか、
  をののき立てるをのこあり


20.5.14 東京都清瀬市

・のちのおもひに   立原道造

  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
  水引草に風が立ち
  草ひばりのうたひやまない
  しづまりかへつた午さがりの林道を

  うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
     そして私は
  見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
  だれもきいてゐないと知りながら 語り続けた……

  夢は そのさきには もうゆかない
  なにもかも 忘れ果てやうとおもひ
  忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

  夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
  そして それは戸をあけて 寂寥のなかに 
  星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
                   『萱草(わすれぐさ)に寄す』
  ※萱草はユリ科の植物カンゾウ。オレンジ色の小さなユリの仲間。山地に咲く。


・夢みたものは   立原道造

  夢みたものは ひとつの幸福
  ねがつたものは ひとつの愛
  山なみのあちらにも しづかな村がある
  明るい日曜日の 青い空がある

  日傘をさした 田舎の娘らが
  着かざつて 唄をうたつてゐる
  大きなまるい輪をかいて
  田舎の娘らが 踊つてゐる

  告げて うたつてゐるのは
  青い翼の一羽の小鳥
  低い枝でうたつてゐる

  夢みたものは ひとつの愛
  ねがつたものは ひとつの幸福
  それらはすべてここに ある と
            『優しき歌』]


カワセミ 20.4.30 東京都清瀬市

[唱歌・童謡] 

・若葉  松永みやお

1 あざやかなみどりよ
  あかるいみどりよ
  鳥居をつつみ
  わら屋をかくし
  かをる かをる
  若葉がかをる

2 さはやかなみどりよ
  ゆたかなみどりよ
  田はたをうづめ
  野山をおほひ
  そよぐ そよぐ 
  若葉がそよぐ 
       『初等科音楽(二)』昭和17年


アセビ 20.4.30 東京都清瀬市野塩明治薬科大学

・夢の木  水谷まさる

    ゆすらう、ゆすらう、夢の木を
  あをい 野原の まんなかに
  一本 はえてる 夢の木を。

    ゆすらう、ゆすらう、夢の木を
  枝に まつかな 夢の實が
  ぽとり ぽとりと 落ちるまで。
 
  ひろはう、ひろはう、夢の実を
  ひろつて たたいて わつて見やう
  おもちやが いろいろ 出るそうな。
      「週刊朝日」(大正13年)


・夢買ひ  北原白秋
 
  ねんねん寝山の栗鼠[りす]の子は
  啼き啼き、お里へ夢買いに、
  夢買ひに。
  とんとと叩けど、よう起きず、
  月夜は寝ねした影ばかり、
  影ばかり。
  葡萄の夜露を浴びませうか、
  厩[うまや]の盥[たらひ]に宿借ろか、
  宿借ろか。
  粉場のお臼へこけ落ちて
  お山は雪だと夢に見た、
  夢に見た。
      『世界音楽全集24「日本童謡曲集」』(昭和6年)



・ニヤンコロリン  本居長世

  ニヤンニヤン ニヤンコロリン
  炬燵[こたつ]の上で
  ニヤンニヤンニヤンコロリン
  炬燵の上で何か夢見て
  ニヤンコロリンとないた

  ニヤンニヤン ニヤンコロリン
  ニヤンコロリンの夢は
  ニヤンニヤンニヤンコロリン
  ニヤンコロリンの夢は
  まりと ねずみと おととの ごはん

  ニヤンニヤン ニヤンコロリン
  おめめがさめて
  ニヤンニヤン ニヤンコロリン
  おめめがさめて のびして あくびして
  ニヤンニヤンとないた
      『世界音楽全集24「日本童謡曲集」』(昭和6年)



  庭の草木が茂り出すのにつられるように、我が家の若い猫の会(会員2名)の皆さんはこのところ庭に出たくてなりません。家族が外出しようとするときはもちろん、何かの用事で玄関近くの廊下を通ったり、玄関チャイムが鳴ったりすると、そのたびに思い出して大騒ぎです。



  みやはさすがに一年分分別があり、足下にすがって「行きたい行きたい」をせがむのですが、それをなだめてやや屈んだ背中や脇腹に、5キロを超えたひたちがいきなり飛びついてきます。半分ぶら下がったまま手足を踏ん張ってなかなか降りてくれないのが痛いわ重いは。
  外に出すのはいろいろな点で考えものですが、二人とも大変喜ぶのでつい抱いて出てしまいます。外では全く猫を被りきり。おとなしくて聞き分けのよいお利口な猫の振りをしている二人です。




カエデの花のあと 20.5.14 東京都清瀬市




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