みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第1回 新年

はじめに 書斎の友


  昭和の作家大佛次郎(おさらぎじろう 明治30年(1897)〜 昭和48年(1973))がことに猫を愛したことは知られています。出身地である横浜の港の見える丘公園に、世の猫好きには周知の大佛次郎記念館があります。肉筆の原稿や蔵書、当時の写真などに猫にかかわるものを数々遺しているほか、遺品がそのまま使われている館内のブックエンドや電灯の傘、文鎮、栞といったちょっとした日用品の意匠にも故人の好みが如実に伝えられています。大佛邸を当てにして近所に捨て猫も多かったといい、世話をした猫の総数は500匹にあまるとも言われます(大佛次郎記念館には、“猫の(そのときの)定員“を15匹までとしていた史料が見られます。入れ替わっての総数は軽く500匹にはなるのでしょう。遺言に、世話する猫は5匹までにするように言い置きましたが、やはり猫好きの夫人はそれを守れなかったということです)。大佛次郎は猫を書斎の虎と呼び、生涯執筆の伴侶としました。外国の作家でも、ハードボイルドのレイモンド・チャンドラーには黒いペルシャ猫の“秘書”がいたことは有名です(「レイモンド・チャンドラー語る」レイモンド・チャンドラー)。彼女は手を加えなければならない不完全な原稿の上に座って静かにチャンドラーに加筆を促したというのでした。確かに猫は立ち居がスマートで思索的なたたずまいをしており、書斎に似合う風情があるように思われます。
  我が家にいた猫たちも一日の過ごし方を見ると、昼間はとかく書斎の主人にまつわり、一日の終わりはというと、誰であれ一番遅くまで起きて勉強している者に付き合って書斎の机の下、あるいは人の膝の上にいました。たしかに猫は「勉強の友」「書斎の友」として、世の中の動向とも無関係に一人で深夜まで机に着き本に執する者の同伴をしてくれていました。ですから、この9月からふと飛び入りで我が家の家族になった仔猫の“みや”が当たり前に書斎を居場所とするのは何ら珍しいことに思えませんでした。みやはようやく生後4ヶ月になります。やんちゃの盛りですが、歴代の猫たちにまさって本に関心が強く、日に何度か静かに本に見入っていることは先の回にお話ししたとおりです。のぞき込んでみると、その本のページというのが、気のせいでしょうか、ちょうどその時私が探しているものであったり、書きかけの原稿に思いがけない有効な資料であったりするのです。チャンドラーの秘書の逸話も決して冗談や誇張とは思われないのです。引っ越し作業中は本棚の周りの段ボール箱が気にかかってならなかったようです。つぎつぎ箱の中に入って改め、書架に移されるのを丸い目でじっと観察していました。


 さて、今日のみやが開いていたのは「和漢朗詠集」の「松」の部でした。なるほど、松ね。
常盤木(ときわぎ)の不変と永遠の時



『粘葉本朗詠集』

[釈文]ときはなる まつのみどりも はるくれ
      ば いまひとしほの いろまさりけり 源宗于


  「ときは」は樹木について言う時は一年中色を変えない常緑樹を言います。松はもとより寿命の長い樹木として知られ、長寿の象徴とされましたが、「ときは木」である松は霜や雪に遭っても色を変えずに耐えるところから不変の象徴として好まれ、さらに永続する時間を示唆するものにもなりました。詩歌の世界では、雪や月、風と取り合わせられることが多いので季節としては冬の素材です。その一方で縁起の良さから新年の風情にもよく詠まれました。この世の栄えを永遠までと祈る心に重ねられるからです。
  かつて陰暦で暮らしていた頃は、新年は基本的に立春(現行暦の2月4,5日頃)に重なりました。新春は名実ともに春でしたが、現在のお正月「新春」は陰暦で言えばまだ11月の末ですから自然界は冬というほかありません。風凍る中で、伝統的な新春の季節の景物を詩歌に詠み、書くのは、実感とかけ離れすぎてしまいます。そんな暦事情の中、松は新年の清新さとおめでたい気分と今の季節感とを無理なく託すことができる題材として貴重かもしれません。比田井小琴の師であった阪正臣( 安政2年(1855)〜 昭和6年(1931))の書と画でもご覧下さい。


 

『三拙集』(阪正臣 昭和四年)

  [釈文]たづの来てやどかりそめし
      時よりや松もちとせの木と
      なりにけむ

      ふるさとの
       庭の老まつ
        来て見れば
      よぢのぼりにし
        昔おもほゆ
                よきほどに
                日影をさふる
                 まつありて
                のきにすだ
                 れもかけぬ
                  いほかな


  現在のカレンダーでは、新年一月は実質は冬ですが、年が明ければ習慣的に「明けの春」。初日の出を拝み、若水を汲み、初荷の楽しみがあり、すべてがあらためて新しく清新な気分が満ちるなか、越したばかりの去年はすでに「はつむかし(旧年)」と呼ばれます。時の流れの速さは、あらたまの年の始まるその時にも常に意識されていたのです。


 [釈文]たづの来てやどかりそめし
      時よりや松もちとせの木と
      なりにけむ

      ふるさとの
       庭の老まつ
        来て見れば
      よぢのぼりにし
        昔おもほゆ
                よきほどに
                日影をさふる
                 まつありて
                のきにすだ
                 れもかけぬ
                  いほかな

  現在のカレンダーでは、新年一月は実質は冬ですが、年が明ければ習慣的に「明けの春」。初日の出を拝み、若水を汲み、初荷の楽しみがあり、すべてがあらためて新しく清新な気分が満ちるなか、越したばかりの去年はすでに「はつむかし(旧年)」と呼ばれます。時の流れの速さは、あらたまの年の始まるその時にも常に意識されていたのです。

「松」文例

・十八公[じふはつこう]の栄[えい]は霜の後に露[あら]はれ
 一千年の色は雪の中[うち]に深し 『和漢朗詠集』「松」(源順『類聚句題抄』「歳寒知松貞」より採録された対句)
 註《十八公》「松」字を分解したもの

・雨を含む嶺松[れいしよう]は天さらに霽[は]れたり
 秋を焼く林葉[りんえふ]は火還[かへ]つて寒し 『和漢朗詠集』「松」(大江朝綱 後江相公(のちのごうしょうこう))

・ねがふ事こころにあればうゑて見る松のちとせのかたみとぞ思ふ 『貫之集』75

・君がため思ふ心の色にいでて松のみどりを折[を]りてけるかな 『新撰和歌』巻三 賀177

・たとふべきものこそなけれ君が世にくらぶの山の松の千とせを 『夫木和歌集』13750  

・住の江の松に夜[よ]ふかく置[お]く霜[しも]は神のかけたる木綿鬘[ゆふかづら]かも  『源氏物語』(若菜下・紫の上の歌)

・風に散る紅葉(もみぢ)は軽[かろ]し春の色を岩根[いはね]の松にかけてこそ見め  『源氏物語』(少女・紫の上の歌)

・いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地[ここち]して、ものあはれなり。『源氏物語』(末摘花)

・雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮(ゆふぐれ)に、人の御容貌(かたち)も光まさりて見ゆ。『源氏物語』(朝顔)


みやにとっては本当にすべてのことが
初めての新年です。
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