みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第13回 身より余れる:蛍・夏虫・言はで思ふ

「泉鏡花集」を開くみや

1 清流に棲む

    蛍の宿は川ばた楊[やなぎ]、
    楊おぼろに夕[ゆふ]やみ寄せて、
    川の目高[めだか]が夢見るころは、
      ほ、ほ、ほたるが灯をともす。
          『新訂尋常小学校唱歌 三』(昭和七年)

  今のところさほどの雨は降りませんが、やはり鬱陶しい梅雨の陽気が続いております。高温多湿で空の重い日中を過ごすと、むしろ暮れてからの、少しは涼しい夜の闇の方がまだ気分も晴れるような気さえします。蛍はそんな梅雨のころ、陰暦五月から六月末にかけて(現行暦の六月中旬から八月始め)の詩歌に古くから歌い継がれてきました。陰鬱な季節、空調設備に助けられることもなく湿熱の不快に苦しめられてきた人々がこのやさしく点滅する生き物の光で心を慰め、季節の不快をしのぐよすがにしてきたことが分かります。

  螢の宿は川端の、楊がそよぐあたりと、唱歌では歌われました。幼虫時代、川蜷(かわにな)という貝を餌とする螢は、清流でなければ棲めない川蜷がいる、水のきれいな川だけに生まれるのです。古典作品の中では「沢の螢」という表現によく会います。沢は水の湧き動く場所ですから、そこの水は絶えず新しくきれいなのです。童謡に、

    ほう ほう
    ほたる こい
    あっちのみづは
    にがいぞ
    こつちのみづは
    あまいぞ
    ほう ほう
    ほたる こい
    「ほたる こい」 わらべ歌

とあるのも、あまい水を好む螢というのが子供の歌らしくはありますが、本来螢の住む水はきれいなのだろうなと思わせます

2 光る

  それにしても、生き物が発光するというのは実に不思議な感じが致します。今日、自然科学的にその仕組みが解明され説明されても、なお目の前に光る螢を見れば、何とも奇(あや)しいとしか申せません。万葉集や古今集の時代の人々が螢の光に超自然の威力を感じ、ただの昆虫だなどとはとうてい思えずに、これを亡き人の魂がこの世に帰ってきたものと懐かしく見たりしたのは無理もないことです。

   また、あるときはこの光を、心が余って外にさまよい出てきた生霊のように見ることもありました。

   物おもへば沢の螢も我が身よりあくがれいづる魂[たま]かとぞみる
    (苦しい恋に悩んで、ふと見ると、沢に飛びかう螢も私の身体から
    さまよい出した自分の魂ではないかと思えてきます。)
                       『後拾遺和歌集』1162和泉式部

歌の詞書によれば、この時期和泉式部は、恋人が自分から去っていこうとするのを感じていました。恋が終わる、失恋の苦しみです。そんなある日、貴船(きぶね)神社に参詣したところ、御手洗(みたらし)川に螢が飛んでいるのを見てこの歌を詠んだとあります。この水も神域の川水ですから実に清浄なイメージです。貴船神社は鴨川の水源にあって水神をお祀りしていますが、和泉式部の当時から、縁結びの神としても信仰を集めていました。和泉式部は失いそうな恋の予感に苦しみながら、木船の神に救いを求めに出かけたのかも知れません。『後拾遺和歌集』には木船の神が和泉式部に返したと伝わるこのような歌も添えられています。

   奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちるばかり物な思ひそ
    (奥山木船にたぎり落ちる滝のしぶきが水玉となって散る、そんな魂が
    散り散りになるほどの、身を痛めるようなもの思いをしてはいけないよ。)

和泉式部の歌と併せてみるとたいへん面白く見えます。神の言葉は特段超越的なものでも何でもありませんでした。和泉式部の悩みの中には立ち入らず、指示も託宣もなく、ただ痛めている心を労っています。体に悪いよと、それはまるで親か親身の近親者のような態度です。

   古典には神との歌の贈答が時々見えますが、多くの場合に神はこのように親しみやすい、むしろ気さくとも言える顔を見せています。日本における人と神との関係を思うに興味深いことです。

3 身より余れる
  思い詰めた心が身を離れ、さまよい出たものが螢火だと見る考えは、その思いの苦しさと一途さが強く伝えられる譬えでしょう。日本人はどちらかというとものごとに、特に恋愛などに関しては、言葉を尽くして訴える方ではなく、目的のものを得たいとは願いながらも「言はで思ふ(思いを告げずに心に思っている)」ことを好ましい態度とするようなところがありました。外に出してはならないと戒めながら、思い余り、あふれ出てしまう、それが螢の光に託された一つのイメージでした。和歌にまつわる短編を集めた『大和物語』(四〇段)に印象的な螢の物語があります。

  桂皇女[かつらのみこ・宇多天皇皇女、孚子(ふし)内親王]のもとに式部卿宮が通っていらっしゃった時、その邸に仕えていたひとりの少女が式部卿宮にひそかな恋心を抱くようになった。けれども式部卿宮は少しもお気づきにならなかった。ある夕べ、螢の飛ぶのを御覧になって、宮は「あの螢を捕らえて」と少女におっしゃった。少女は自分の着物の袖に捉えた螢を包んで御覧に入れて、この歌を詠んだ。

  つつめども隠れぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり
   (あらわにするまいと隠しても隠しきれないものは、螢の身の内から輝き
    出す光のような、この胸からあふれ出てしまう私の思いなのです)

お話はこれだけです。思わず打ち明けた少女がそのあとどうなったか、記されていません。残るのは夏の薄物の袖に包まれて、夜の闇にほのかに明るむ螢の光の残像です。

  かつて信州立科の奥で夏休みのいっときを過ごしたときのこと、あたりに何もない辺鄙な古い別荘地の外れだったので、夜になって、少し離れた集落まで買い物に出ることになりました。街灯もない野原を懐中電灯を持って横切り、小さな木の橋を渡るうち、辺りはすっかり暗くなりました。その橋のほとり、細い川縁に螢の群が光の波のようにさざめいていた光景が今も忘れられません。わずかに虫のすだくのが聞こえるばかり。しんとした夜の中、光の波は川に沿って形を変えながら、ゆるやかにうねり、灯(とも)ったり消えたりしながら音楽のようにさざめいていました。もし螢を見るのが生まれて初めてであったとしても、またそれまでこの世に螢というものがあることさえ知らなかったとしても、漆黒の闇に拡がる眼前の幻想的な光景には素直に「ああ、きれいだ」と感じたことでしょう。しかし、その息づくように点滅する光の群を美しいと見ながら、何となし胸を締めつけられるような切なさや、命のはかなさといったようなもの、またこの世もあの世もないような魂の存在といったことまでが胸に迫って思われたのは、それまでに読んでいた詩歌や物語の中の螢の記憶が無意識のうちに目の前の光に重なったからだったに違いありません。もしも本の中の螢に出会っていなかったら、ひとつの景観にあれほど複雑に心を揺すぶられることはなかったでしょう。私たちが文学に接して得たものは、知らず知らずに記憶の中に沈潜して、時にこうした形で思いがけない幸福をもたらしてくれることがあります。生きる現実が一つしかなくても、そのひとつの現実に何層にも重なる深みが与えられるのは実に幸せなことです。


【文例】(※は本文中に記事あり)

[漢詩]

・「戯曲「曼弗列度」一節」より抜粋  森鴎外
 魔語
 When the moon is on the wave,
 波上繊月光紛
 And the glow-worm in the grass,‥‥
 蛍火明滅穿碧叢
    『於母影』

・ 螢火乱飛秋已近
 辰星早没夜初長
  螢火[けいくわ]乱れ飛んで秋已[すで]に近し。
  辰星[しんせい]早く没して夜初[めて]長し。
    『和漢朗詠集』186 元
    「夜座」より2句

・明明仍在誰追月光於屋上
 皓皓不消豈積雪片於床頭
  明々[めいめい]として仍[な]ほ在[あ]り、誰[たれ]か
  月の光を屋上[をくぢやう]に追[お]はんや。
  皓々[かうかう]として消えず、豈[あ]に雪片[せつぺん]を
  床頭[しやうとう)]に積まんや。
      『和漢朗詠集』188 紀長谷雄「秋蛍照帙賦」

・ 夕殿蛍飛思悄然
 秋燈挑尽未能眠
  夕[ゆふべ)]の殿[との]に蛍飛び、思ひ悄然[せうぜん]たり。
  秋の燈[ともしび]挑[かか]げ尽して未[いま]だ眠ることあたはず。
     『和漢朗詠集』782 白居易
     「長恨歌」よりの2句

[和歌]

・草ふかきあれたるやどのともし火の
 風にきえぬはほたるなりけり
 『新勅撰和歌集』山部赤人

・※つつめどもかくれぬものはなつむしの
 身よりあまれるおもひなりけり
 『大和物語』四〇段『後撰和歌集』

・声はせで身をのみこがす螢こそ
 言ふよりまさる思ひなるらめ
 『源氏物語』螢 螢兵部卿宮の歌として。

・ なく声も聞こえぬ虫の思ひだに
 人の消つにはきゆるものかは
 『源氏物語』螢 螢兵部卿宮の歌として。

・夜を知る螢を見ても悲しきは
 時ぞともなき思ひなりけり
 『源氏物語』幻 光源氏の歌として。

・ ※物おもへば沢の螢も我が身より
 あくがれいづる魂[たま]かとぞみる
 『後拾遺和歌集』1162和泉式部

・ ※奥山にたぎりておつる滝つ瀬の
 たまちるばかり物な思ひそ
 『後拾遺和歌集』

・芹つみし沢辺[さはべ]のほたるおのれ又
 あらはにもゆと誰[たれ]にみすらん
 藤原定家

・さゆりばのしられぬ恋[こひ]もあるものを
 身よりあまりてゆく蛍かな
 藤原定家

・夏の夜は物おもふ人の宿ごとに
 あらはにもえてとぶ蛍かな
 九条道家

[散文]

・夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りてゆくもをかし。雨など降るもをかし。
『枕草子』一段

・ 螢はたぐふものもなく、景物の最上なるべし。水に飛びかひ、草にすだく。五月の闇はただこのものの為にやとまでぞ覚ゆる。然るに貧の学者にとられて油火の代はりにせられたるはこのものの本意には非[あら]ざるべし。歌に螢火と詠ませざるは、殊の外の不自由なり。
『百虫譜』横井也有 より

・誤つた形式偏重論を奉ずるものも災ひだ。おそらくは、誤つた内容偏重論を奉ずるものより、実際的にはさらに災ひにちがひない。後者は少なくも星の代はりに隕石(いんせき)を与へる。前者は螢(ほたる)を見ても星と思ふだらう。
『芸術その他』芥川龍之介 より

[近現代詩]

・母を葬るのうた  島崎藤村
 なつはみだるゝ
   ほたるびの
 きみがはかばに
   とべるとも

 とほきねむりの
   ゆめまくら
 おそるゝなかれ
   わがはゝよ
   『若菜集』「母を葬るのうた」より抜粋

[唱歌・童謡]

・かをれ  小学唱歌集
 第一
 一 かをれ。にほへ。そのふのさくら。
 二 とまれ。やどれ。ちぐさのほたる。
 三 まねけ。なびけ。野はらのすゝき。
 四 なけよ。たてよ。かは瀬のちどり。

・ ほたるこい  わらべ歌
 ほう ほう
 ほたる こい
 あっちのみづは
 にがいぞ
 こつちのみづは
 あまいぞ
 ほう ほう
 ほたる こい

・蛍  文部省唱歌
 蛍の宿は川ばた楊[やなぎ]、
 楊おぼろに夕[ゆふ]やみ寄せて、
 川の目高[めだか]が夢見るころは、
    ほ、ほ、ほたるが灯をともす。

 川風そよぐ、楊もそよぐ
 そよぐ楊に蛍がゆれて、
 山の三日月隠れるころは、
    ほ、ほ、ほたるが飛んで出る。

 川原[かはら]の面[おも]は五月の闇夜
 かなたこなたに友よびつどひ
 群れて蛍の大まり小まり、
   ほ、ほ、ほたるが飛んで行く。
『新訂尋常小学校唱歌三』所収



みやは相変わらず梅雨休みです。

夜は遊んでおります。
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