みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第20回 のちの月:九月十三夜

「泉鏡花集」を開くみや

1 月のきれいなのは
  月(つく)ぬ美(かい)しや十日三日(とうみいか)
  女童(みやらび)美しや十七つ(とうななつ)
   意訳:月のきれいなのは十三夜
      娘のきれいなのは十七歳  (沖縄・八重山民謡冒頭)



雲間名月 19.9.23(本年は実際は25日が満月。従って十三夜月)

  一年で最も美しい月と古来讃えられてきた中秋名月(現行暦:9月23日〈平成19年〉連載第18回参照)のほか、もう一つの名月とされていたのが陰暦9月の十三夜です。今年のカレンダーの上で見ると、10月の23日がそれに当たります。いつのどの月にしても折々にふさわしい風情はあり、それなりに美しくない月はありませんが、観賞の対象として宮中の年中行事に組み込まれていたのが、この中秋の月(陰暦8月15日)と長月(ながつき:陰暦の区分では7月から始まる秋の最後の月)の十三夜(陰暦9月13日)なのです。中秋の観月のあとなので、通称「後(のち)の月」と呼ばれます。古典では、ただ「名月」と言えば葉月(陰暦8月)十五夜を表すように、「十三夜」とだけ言う場合、多くは長月(陰暦9月)十三夜を指します。

  中秋の月を最上とする位置付けは中国の習慣に倣ったものでしたが、十三夜を賞(め)でるのは日本独自の風習です。十三夜という呼び名に明らかなとおり、満月(十五夜)ではありません。中秋名月のほかにもう一度よい月を選ぶとして、長月満月でないのはなぜなのでしょう。ちょっと不思議な気がしますが、完成した豊満な満月ではなく、わずかにそれに満たない若い十三夜の風情(沖縄の民謡で17歳の娘の美しさに譬えられる)は、元来絢爛豪華の筋をあまり評価しない日本人の好みにはたしかに合っているように思います。

  長月十三夜を特別なものとする由来は定かではありませんが、宮中儀式の起源は平安前期、宇多天皇(867〜931:在位887〜897)の御代からです。平安後期の藤原宗忠(1062〜1141)の日記「中右記(ちゅうゆうき)」には、この夜が名月の夜と定められのは、9月13日に月を御覧になっていた宇多天皇のたまたまの発意であったとの記述が見えます。一からの発案であったのか、もともと意味のある月を観月の対象として宮中儀式に制定したのが宇多帝であったということなのか、そこを知りたいものですが、管見の限りでは分かりませんでした。ただ、敢えて満ちる前の月を中秋名月に並ぶものとして取り立てたところには、遣唐使を止め、国風文化を自ら牽引し、後に貴族社会の聖代と仰がれる延喜天暦時代の礎を築いた宇多天皇の美意識は働いていたことでしょう。



19.10.7(東京都清瀬市)

  一方、宮中貴族の観月の宴とは接点のない庶民の世界でも、北国でも南国沖縄でも、この十三夜には栗や豆などの収穫物を供えてお月見をする習慣があります。十三夜を特別のものとするのには、宇多朝の宮中で儀式が始まるよりさらに遡る昔に、民衆のお月見の歴史とも合流する古い起源があるのかもしれません。そもそも「お月見」とは月の美しさをただ賞(め)でる風流に留まるものではなかった可能性があります。多くの地域で中秋の名月には秋の花のほかに里芋を供えて飾るのが決まり事です。「芋名月」と呼ばれたりします。同じように長月十三夜は薄(すすき)をかざり栗や豆をお供えすることから「栗名月」また「豆名月」などと呼ばれます。収穫祭の趣きがあるのは時期を併せ見れば納得のゆくことですが、収穫の感謝は当然、不可思議な自然に対する畏怖のこもった祈りであったことでしょう。中秋の月を観て、後の月(長月十三夜)を観ないのはよくないこととされ、それを指して「片見月」という言葉までありました。その習俗は近世まで続いており、江戸末の和歌にも二度の月見を当然とするような歌が数多く詠まれています。

  十三夜曇れり中秋はいとさやけかりけるを思へば
    名に高き二夜(ふたよ)ながらに月影のさやけき年ぞすくなかりける
        小沢蘆庵『六帖詠草』

「お月見」の始まりは呪術的な意味のある行事だったのかも知れません。



19.10.7(東京都清瀬市)

2 星の位置、空の清明
  ところで、月の形ではなく、長月13日という日付にこの十三夜の意味を理解しようとするものに、次のような記事があります。鎌倉時代の「徒然草」です。

   八月十五日、九月十三日は婁宿(ろうしゆく)なり。此の宿(しゆく)、   清明なる故に、月を翫(もてあそ)ぶに良夜とす。(第239段 全文)

婁宿とは本来は星座のこと。古代中国の宿曜道(すくようどう:陰陽道のうちの天文学部門)において、二十八宿と呼ばれる二十八種類の星座の一つです。この星座は天球を四つに区分し、東方七宿(註:宿は星座)、北方七宿、西方七宿、南方七宿と分けた時、西の空に位置する星座(西方七宿:奎・婁・胃・昂・畢・觜・参)の二番目に数えられている、牡羊座の三星を中心とする星のグループです。我が国では早いうちに、この二十八宿の名を順に正月一日から十二月三十日までの毎日に当ててゆくことが始まりました。やがて、内裏から火が出るのは牛(北方七宿の二番目)の日が多いとしてこの日を外して二十七宿にするなど、もともとの天文の大系を残すこともなくなりました。「徒然草」の「八月十五日、九月十三日は婁宿なり」という記述は、この二日がどちらもたまたま水曜日に当たる、というほどの意味と変わりません。その上で、その宿(にあたる夜空)が「清明」なので月を賞翫するのにふさわしい、と述べています。この「宿(婁宿)」の意味は、先の通り、実際の天体の運行状況とはすでに関係ありません。この時期の陰陽道において、一種の星占いのような趣で「〈婁〉の日は空清明」という通念でもあったとすると通る文です。文書で確かめられるものを見つけましたら、またの機会に御紹介したいと思います。


 「徒然草」の記述は、長月十三夜が中秋名月とともに格別の月として挙げられる理由を求め、二つの名月に明確な共通点を捜そうとしたものでしょう。何にでも合理的な説明を求めようとする筆者の性格が感じられて、面白い段だと思います。

3 能登陣中の十三夜

 九月十三夜  上杉謙信

 霜満軍営秋気清
 数行過雁月三更
 越山併得能州景
 遮莫家郷憶遠征
  霜は軍営に満ちて秋気清し、
  数行[すうかう]の過雁[くわがん]月三更[さんかう]。
  越山併[あは]せ得たり能州の景[けい]、
  遮莫[さもあらばあれ]家郷[かきやう]遠征を憶[おも]ふ。

 霜は軍営に満ち満ちて秋の気配は清(す)みわたり、
 渡る雁の群は幾行(いくつら)か夜も更けわたる。
 越の山々と能登の地とを併せ得て見たるこの景色よ、
 郷里の家族は出征した身を案じているであろうが、
 そんなことは気にすまいぞ
    (北川蓬翁訳)

  戦国大名上杉謙信(享禄3年[1530]〜天正6年[1578])は戦上手で恐れられた武将でしたが、軍略に長けていたと言うよりは、抜群のカリスマ性で陣頭に立ち、自ら白刃をくぐって戦う天才的な武人タイプであったようです。折しも、NHKの大河ドラマでは戦国時代を舞台にした『風林火山』が放送されています。「風林火山」を旗印にした武田信玄と12年にわたり5回にも及んで繰り返された川中島の戦いは、頼山陽の「鞭声粛々夜河を渡る」(「題不識庵撃機山図」:不識庵(謙信の号)機山(信玄の号)を撃つの図に題す。第4次川中島合戦を詠んだ七言絶句)の劇的な詩に由っても有名ですが、謙信自身にも詩歌管弦のたしなみがありました。
「九月十三夜」詩は、川中島の戦いも過去になり、元亀4年(1573)に宿敵武田信玄も病没した後の 天正5年(1577) 9月13日、能登の七尾城攻略の折、落城を目前にひかえて陣中に賦したものです。陰暦9月のひんやりした夜更け、十三夜の月光の下で「遮莫(さもあらばあれ)」とは言いながら故郷をやはり思うのです。すでに勝ちの見えた戦いとはいえ陣中の作であることに、一層しみじみとした感興があります。

  月をみる時は 心しづかなり
  こゝろ静けきは 月の恵(めぐみ)なり

とは、作者不詳の明治の唱歌(『小学唱歌集第3編』(明治17年)第八十六「花月」)の一節です。



  軍神と恐れられた上杉謙信は出征して負けた戦がほとんどなかったといわれるほどですが、多くは請われて加勢したり、他氏が奪われた領土を再び安堵(前領主の旧領復権)する戦で、謙信自身の領土はさして拡がらなかったと指摘されます。 幼年時代を春日山城下の曹洞宗林泉寺に預けられて育ち、若くして仏門に帰依し、ことに毘沙門天を信仰して「毘」の文字を旗印としたことは知られるとおりです。上洛の際は臨済宗大徳寺に参禅したり、晩年は高野山金剛峰寺の清胤に潅頂を受けて阿闍梨権大僧都の位階を授かるなど、仏教への傾倒は終生にわたりました。当時の戦国大名の基準の中では極めて禁欲的な性格が知られ、義理堅いこと、約束を愚直なまでに守ることは敵対する大名の中でも信用があったようです。その類の逸話の代表的なものとして、武田氏の軍略を記した軍学書『甲陽軍鑑』(江戸時代前期に成立)には、武田信玄が嗣子勝頼に、自分の死後は謙信を頼れと遺言したとの記事があります。本の筋から見て真偽はあやしい話ですが、分かることは、そのような逸話をいかにもと思わせる義人のイメージが当時の謙信にはあったということです。
  謙信家訓として伝えられている「宝在心」と呼ばれる十六項目を御紹介しましょう(「名将言行録」ニュートンプレス 岡谷繁実)。

  心に物なき時は、心広く體泰(からだやすらか)なり。
  心に我儘(わがまま)なき時は、愛敬(あいきやう)失はず。
  心に慾なき時は、義理を行ふ。
  心に私(わたくし)なき時は、疑ふことなし。
  心に驕(おご)りなき時は、人を敬(うやま)ふ。
  心に誤りなき時は、人を畏(おそ)れず。
  心に邪見なき時は、人を育つる。
  心に貧なき時は、人に諂(へつら)ふことなし。
  心に怒りなき時は、言葉和(おだや)かなり。
  心に堪忍ある時は、事を調(ととの)ふ。
  心に曇なき時は、心静(しづか)なり。
  心に勇ある時は、悔むことなし。
  心賤しからざる時は、願ひ好まず。
  心に孝行ある時は、忠節厚し。
  心に自慢なき時は、人の善を知る。
  心に迷ひなき時は、人を咎めず。

この「宝在心」なるものが真実謙信の言葉であるかはともかく、上杉謙信はこのような無欲の精神主義者、ほとんど僧侶といってよい人格として伝えられてきました。

  能登の十三夜を詠んだわずか二年後の天正6年(1578)、謙信は急の病で倒れます。享年49歳。もしこの急死がなかったら、織田信長の天下統一はなかったかも知れないと言われます。それでは歴史が異なれば謙信が天下に号令する立場に就くことがあったでしょうか。秀吉のように君臨し、家康のように幕府を開き将軍になっていたでしょうか。あまり似合わないような気がします。先の十六項目など眺めていると、うき世のことは措いて「美しい国」を目指しそうなタイプです。実像は分からないとしても、その方面で十分“キャラは立って”います。

  現在のNHKの大河ドラマではそんな“キャラ”ともかけ離れた上杉謙信を若い歌手のGacktが演じています。謙信の超俗的な面をあてようとしたキャストかもしれませんが、初めて見た時にはただ奇矯さに驚きました。怖いもの見たさで、日曜日の夜、思いつくと時々Gackt謙信を覗きに、みやとチャンネルを合わせてしまいます。

  謙信は座禅を好んで人を近づけない時が折々あったり、宴会ではなく一人で痛飲するタイプだったことなど、もともとの生活習慣に人に素顔が知られにくい面がありました。また、勇将として見られる一方で、関白近衛稙家(このえ たねいえ、文亀3年[1503]〜永禄9年[1566])から和歌の奥義を伝授され、上洛した際には歌会の席にも着いて親しく公家社会に交わり、「源氏物語」をはじめ、物語類を好んで読んでいた、一人で琵琶を弾くのを慰めとした、など閑雅な伝承もあります。そして不思議なことに妻妾の記録がなく(男色の相手も知られず)、生涯不犯(ふぼん:結婚しなかった)と伝えられ、子供はすべて養子です。そんなところが併さって、かなり昔から謙信女性説というのも唱えられてきました。遺品の甲冑や衣類の検証を信ずれば、当時の平均的な男性の体格よりはやや小柄であったようです。みやとテレビの前で肩幅の狭いGacktの怪演を見ていると、そんな珍説を思い出します。


【文例】

[漢詩]

・九月十三夜  上杉謙信

 霜満軍営秋気清
 数行過雁月三更
 越山併得能州景
 遮莫家郷憶遠征
  霜は軍営に満ちて秋気清し、
  数行[すうかう]の過雁[くわがん]月三更[さんかう]。
  越山併[あは]せ得たり能州の景[けい]、
  遮莫[さもあらばあれ]家郷[かきやう]遠征を憶[おも]ふ。

・詠月[つきをよむ]  文武天皇

 月舟移霧渚
 楓楫泛霞濱
 臺上澄流耀
 酒中沈去輪
 水下斜陰碎
 樹落秋光新
 獨以星間鏡
 還浮雲漢津
  月舟[げつしう]霧渚[むしよ]に移り   楓楫[ふうしふ]霞浜[かひん]に泛[うか]ぶ   台上[だいじやう]流耀[りうえう]澄み   酒中[しゆちゆう]去輪[きよりん]沈む   水下り斜陰[しやいん]碎[くだ]け   樹落ち秋光[しうくわう]新たなり   独[ひと]り星間[せいかん]の鏡を以て   還[ま]た雲漢[うんかん]の津[しん]に浮かぶ。


[和歌]

・九月十三夜曇りければ
 天雲[あまくも]もかくさふべしや照る月を
 めでそめませし昔思へば
  橘千蔭『うけらが花』(享和2年)

・十三夜月
 ひととせの花のとぢめと咲く菊に
 今宵[こよひ]の月をたゝへてぞ見る
  村田春海『琴後集』(文化10年)

・九月十三夜月をもてあそぶといふことを
 おもふどち籬[まがき]の菊を折りかざし
 月見る宵は更[ふ]けずもあらなむ
  村田春海『琴後集』

・故郷月
 古里の月に訪[と]ひきて水草[みくさ]ゐし
 板井[いたゐ]の清水[しみづ]さし汲まれけり
  橘千蔭『うけらが花』

・よき人のこころ高さにたぐへ見む
 梢[こずゑ]の花も月の光も
  橘千蔭『うけらが花』

・月を見る
 ながしとて秋をばたれのいとひけむ
 月に心の慰むものを
  村田春海『琴後集』(文化10年)

・月明[あか]き夜人の家の泉[いづみ]を見て
 すむ人の心きよさもくまれけり
 月を宿せる庭の池水[いけみづ]
  村田春海『琴後集』

・月下懐旧
 月を思ふ友こそ稀[まれ]になりにけれ
 むかしの秋を誰[たれ]と語らむ
  村田春海『琴後集』

・月下述懐
 秋風に月すむ夜半[よは]の白雲を
 払へどかゝるわが心かな
  上田秋成『藤簍冊子[つづらぶみ]』(文政4年)

・天[あま]の原秋の夜わたり照る月の
 光をさまる暁[あかつき]の空
  上田秋成『藤簍冊子[つづらぶみ]』

・十三夜曇れり中秋はいとさやけかりけるを思へば
 名に高き二夜[ふたよ]ながらに月影の
 さやけき年ぞすくなかりける
  小沢蘆庵『六帖詠草』(文化8年)


[散文]

・十三夜の月はなやかにさし出でたり。  『源氏物語』明石

・月見る宵[よひ]のいつとてもものあはれならぬ折はなき中に、今宵の新たなる月の色には、げになほわが世の外までこそよろづ思ひ渡さるれ。
『源氏物語』鈴虫

・八月十五日、九月十三日は婁宿[ろうしゆく]なり。此の宿[しゆく]、清明なる故[ゆゑ]に、月を翫[もてあそ]ぶに良夜とす。  『徒然草』第239段


[民謡]

・月[つく]ぬ美[かい]しや(沖縄・八重山民謡)

 月[つく]ぬ美[かい]しや十日三日[とうみいか]
 女童[みやらび]美しや十七つ[とうななつ]
 ホーヰーチョーガー

 東[ありぃ]から ありうる うふ月ぬ夜[ゆ]
 沖縄[うきなん]八重山[やいまん]照らしょうり
 ホーヰーチョーガー

 あんだきなあぬ うふ月[つく]ぬ夜[ゆ]
 ばが けら あさびょうら
 ホーヰーチョーガー

  月のきれいなのは十三夜
  娘のきれいなのは十七歳
  ほーいーちょーがー

  東から上る お月様
  沖縄 八重山を照らしませ
  ほーいーちょーがー

  あんなに大きなお月様
  僕らもみんなで遊ぼうよ
  ほーいーちょーがー
      (意訳)


[唱歌・童謡]

・岩もる水  『小学唱歌集第2編』(明治16年)第四十
 いはもる水も 松ふく風も
 しらべをそふる つま琴の音や
 あれおもしろの こよひの月や
 こゝろにかゝる 雲霧もなし

・千草の花  『小学唱歌集第3編』(明治17年)第八十

 千草の花は 露をそめ
 野中の水は 月やどる
 そまらぬいろと 空のかげ
 はかなきものか よの中は

 錦をよそふ 萩の花
 もみぢをさそふ 夜半[よは]の霜
 夢野のあとゝ 消えゆかば
 木枯ばかり あれぬべし

 はかなきものを 誰めでん  きえゆくものを たれとはん  跡あるものは 筆の花  かをりをのこせ 後のよに
・四の時  『小学唱歌集第3編』(明治17年)第八十五

 よつのとき ながめぞつきぬ
 春ははな おりなす錦
 あきは月 ますみのかゞみ
 なつごろも かとりもすゞし
 冬のあさけ 雪もよし
 ひとの世の たのしきものか
 神の恩 国のおん
 君の恩 わするな人


・花月  『小学唱歌集第3編』(明治17年)第八十六

 花を見る時は こゝろいとたのし
 心たのしきは 花のめぐみなり

 月をみる時は 心しづかなり
 こゝろ静けきは 月の恵なり

 よきをみて移り 悪をみてさけよ
 朱に交はれば あかくなるといふ


目次

このページのトップへ