みやと探す・作品に書きたい四季の言葉

連載

第30回 春は霞みて:野の春、ひばり、百千鳥、帰る雁、むらさき(紫草)、すみれ、春愁、霞、朧月夜

「泉鏡花集」を開くみや

 
霞む梅の満開  20.3.14東京都清瀬市

1 春は霞みて

  「春は一年の若き時、若き時は一生の春」とイタリアの古歌には歌われました。心弾む春は、しかし始まりは穏やかです。

  晴れた日が、ほんのりわずかに霞がかかっているようなのはいかにも季節の風情と思って見ておりましたら、この頃は黄砂かと心配する向きもあるとのこと。たしかに気象情報で黄砂が警告されるような日は、停めておいた車の上の細かい粉のような塵が並ではありません。春の霞のと言ってのどかに景色を眺めることができた時代はもう過ぎてしまったのかもしれません。

  それでも詩歌の中ばかりでなく、春はかすみ、春の夜はおぼろ月、と次々イメージが言葉になるのは、長い年月の中でそれぞれの季節に取り上げられる景物が自然に定まってきたからにほかなりません。こうしたきまりごとが伝統となってきたのには、人々に共有されてきた季節感覚があったからです。その源は遡れば平安時代の半ば、935年に撰進の記録がある『古今和歌集』に到ります。



20.3.14東京都清瀬市

  十世紀の始め、紀貫之らがはじめて勅撰の和歌集を編もうとした時、日本の歌の神髄にまず四季の移り変わりの美しさを挙げたことは和歌文学史の上だけでなく、私たち日本人の精神の歴史をたどる上でも注目に値することと思われます。


20.3.14東京都清瀬市

  『古今和歌集』は前例のない作品集でしたから、編者(撰者)は集めた歌をどのように日本の歌集の形にするか、一から考えなければなりませんでした。歌の精選以上におそらく編集の方にこそ苦心し、結果として彼らの希有の才能の証左を後世に残しました。今日見るあの形に編集された『古今和歌集』の背景には高い学識と卓越した詩心があることは間違いありません。しかしそのこととはまた別に、歌集に採られている季節の景物またその配列、つまり題材の取捨選択とその編集には、素直で細やかな自然観察が率直に反映されていることも確かです。今日『古今和歌集』の美意識、と言うと端正で緻密な知的操作の方だけが取り上げられがちで、それもただ形式的に固定されたつまらないのものように錯覚されることがあるのは、まことに残念なことです。『古今和歌集』を紐解けば、そこにはみずみずしい自然のパノラマを見ることもできるのです。

  それでは『古今和歌集』のこの時期、春の巻の桜の前にはどんな景色が展開しているでしょう。さまざまな意匠で詠まれた梅と、その前には帰る雁、その前には緑の芽吹きや鳥の囀り、春の野の風景が並んでいます。世は桜待ちの春、このたびはまず野原の春から訪ねます。


梅の枝にひよどり  20.3.14東京都清瀬市


2 小川のささやき

  春の小川は さらさら流る
  歌の上手よ いとしき子ども
  声をそろへて 小川の歌を
  うたへうたへと ささやく如く
          (「春の小川」文部省唱歌 より)

  ここに御紹介するのはよく知られた唱歌「春の小川」の、あまり知られていない3番の歌詞です。昭和17年に林柳波の詩でこの歌は改変され、現在歌われている形になりましたが、その折に3番は歌詞全部が削除されました。その後、歌の形を始めの文語体に遡って現在の形と較べてみることはあっても、現在の歌にない3番までが復元されることは稀なために、すっかり埋もれてしまったのです。
  第1行と最後の句「ささやく如く」は1番から3番まで共通しています。さらさらとした川の流れは終始やさしい自然のささやきとして春の野にのどかに響いています。そのささやきは、1番には野の花すみれやれんげの花に「咲けよ咲けよ」であり、2番は小川の蝦(えび)やめだかや鮒の子に「遊べ遊べ」、そして3番では人間の子どもたちに「うたへうたへ」です。なんと慈しみに満ちたやさしい勧誘でしょう。

  考古学者樋口清之(1909〜1997)が子どもの頃、この歌を歌って道を歩いていたら、“太ったおじさん”が近づいてきて、「坊やはその歌が好きか」と尋ねた。「大好きだ」と答えたところ、おじさんはにこにこしながら「その歌はおじさんが作ったんだよ」と言って自分の家に案内し、ごちそうをしてくれたという。そのおじさんが、この作詞者高野辰之(1876〜1947)だったとは後で分かったと、国語学者の金田一春彦(1913〜2004)に語ったということが金田一春彦氏の本に書いてあります(『心にしまっておきたい日本語』金田一春彦 KKベストセラーズ)。行きずりのおじさんに言われるがままついて行ってしまって良いのかというようなことはさておき、なんとものどかな時代の話ですが、なお高野辰之の人柄を偲ばせる逸話ではあります。

  この歌の想となった小川は当時高野が住まいした東京府豊多摩郡代々幡村代々木を流れていた河骨川(こうぼねがわ:宇田川の支流)といわれています。現在の渋谷区代々木、東京都会の代表のような地域となり、もともと小さな流れであった河骨川も暗渠(あんきょ)となって今はありません。世は移り町は変わっても、歌は残り、こうしてやさしい大人らしい眼ざしを遠くからも今に送り続けています。


20.3.12東京都清瀬市


【文例】
[漢文]

・春夜  蘇軾

  春宵一刻直千金
  花有清香月有陰
  歌管楼台声細細
  鞦韆院落夜沈沈
   春宵[しゆんせう]一刻直[あたひ]千金
   花に清香[せいかう]有り月に陰[かげ]有り
   歌管[かくわん]楼台[ろうだい]声[こゑ]細細[さいさい]
   鞦韆[しうせん]院落[ゐんらく]夜沈沈[ちんちん]


20.3.14東京都清瀬市柳瀬川


[和歌]
・春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ
 野を懐かしみ一夜[ひとよ]寝にける
     山辺赤人『万葉集』1424


・うらうらに照れる春日[はるひ]にひばり揚[あ]がり
 心悲しもひとりし思へば
     大伴家持『万葉集』4292


・むらさきのひともとゆゑに
 武蔵野の草はみながらあはれとぞ思ふ
     詠み人知らず『古今和歌集』


・むらさきの色濃きときはめもはるに
 野なる草木そわかれざりける
     在原業平『古今和歌集』、『伊勢物語』41段


・手に摘みていつしかも見む
 紫の根にかよひける野辺の若草
     『源氏物語』若紫 光源氏の歌




・百千鳥[ももちどり]さへづる春は物ごとに
 あらたまれども我ぞふりゆく
     詠み人知らず『古今和歌集』28


・遠近[をちこち]のたづきもしらぬ山中[やまなか]に
 おぼつかなくも呼子鳥[よぶこどり]かな
     詠み人知らず『古今和歌集』29


・春霞立つを見捨てて往く雁[かり]は
 花なき里に住みや慣らへる
     伊勢『古今和歌集』31


・起きもせず寝もせで夜を明かしては
 春の物とてながめ暮らしつ
     在原業平『古今和歌集』61、『伊勢物語』2段




[散文]

・明けゆく空はいといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。
                      『源氏物語』若紫 北山の春

・ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花のいろいろなほ春に
 心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも笛の音に劣らぬ心地す。
                           『源氏物語』御法


・こなたかなた霞みあひたる梢ども錦を引きわたせるに、御前の方ははるばる
 と見やられて、色をましたる柳、枝を垂れたる、花もえもいはぬ匂ひを散ら
 したり。                      『源氏物語』胡蝶




[近現代詩・訳詞]

・春は一年の若き時、若き時は一生の春
    イタリアの古歌より抜粋 :訳 上田敏


・手折れよ薔薇を、花咲くひまに。
 今日が明日ある世でもなし
    ドイツの古歌より抜粋:訳 上田敏


カーテン登り中

・ただ若き日を惜しめ  佐藤春夫

    勧君莫惜金褸衣
    勧君須惜少年時
    花開堪折直須折
    莫待無花空折枝
          社秋娘
綾にしき何をか惜[を]しむ
惜しめただ君若き日を
いざた折[を]れ花よかりせば
ためらはば折りて花なし
           『車塵集』


・音[ね]に啼く鳥  佐藤春夫

    檻草結同心
    将以遺知音
    春愁正断絶
    春鳥復哀吟
        薛濤
ま垣の草をゆひ結び
なさけ知る人にしるべせむ
春のうれひのきはまりて
春の鳥こそ音にも啼け
           『車塵集』


・小諸なる古城のほとり  島崎藤村

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす繁縷[はこべ]は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたたかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色はつかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れゆけば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む



・鶯の頌(冒頭部分抜粋)  野口米次郎

たつた一つの歌の創造者よ、
お前は勝利を、狂気を、芸術をいつも同じ言葉で語る……
何といふ神秘だ。
私はお前より余分な歌や夢を二つ三つ持つてゐる、
だが、私は歌はない前から慄[おのの]き、躊躇する……
悲しいかな、私の言葉は私の命を奉じない。
お前は歌を突進させる……何といふ不注意な態度だ。
空中へ歌ひのけ、その歌をけろりと忘れてしまふ……如何にも
   お前は豪気だ。
お前は、歌の順番を待つてゐる他のものどもを考慮しない。
お前は歌ひ歌ひ、自分の歌だけの路を推しすすめる、
(他の鳥や詩人は気の毒なものだ、)
ああ、何といふ愉快な野蛮の一行為であらう。


・胡蝶  八木重吉

へんぽんと ひるがへり かけり
胡蝶は そらに まひのぼる
ゆくてさだめし ゆゑならず
ゆくて かがやく ゆゑならず
ただ ひたすらに かけりゆく
ああ ましろき 胡蝶
みずや みずや ああ かけりゆく
ゆくてもしらず とももあらず
ひとすぢに ひとすぢに
あくがれの ほそくふるふ 銀糸をあへぐ


・歩行  尾崎翠

おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみて
おもひを野に捨てよ

おもかげをわすれかねつつ
こころくるしきときは
風とともにあゆみて
おもかげを風にあたへよ
    『アップルパイの午後』昭和4年(1929)




[唱歌・童謡]

・春の小川[をがは]  文部省唱歌(高野辰之)

1 春の小川は さらさら流る
  岸のすみれや れんげの花に
  にほひめでたく 色うつくしく
  咲けよ咲けよと ささやく如く

2 春の小川は さらさら流る
  蝦[えび]やめだかや小鮒の群に
  今日も一日 ひなたに出でて
  遊べ遊べと ささやく如く

3 春の小川は さらさら流る
  歌の上手[じやうず]よ いとしき子ども
  声[こゑ]をそろへて 小川の歌を
  うたへうたへと ささやく如く
    『尋常小学唱歌 第四学年用』明治45年(1912)


20.3.14東京都清瀬市柳瀬川


・朧月夜  文部省唱歌(高野辰之)

1 菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端[は] 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば
  夕月かかりて にほひ淡し

2 里わの火影[ほかげ]も 森の色も、
  田中の小路をたどる人も
  蛙[かはづ]のなくねも かねの音も
  さながら霞める朧月夜
    『尋常小学唱歌 第六学年用』大正3年(1914)
◎大正3年の上記の刊行物で見る限り、2番末行は「霞〈め〉る」、口語の形。


20.春 東京都清瀬市

・梅に鶯[うぐひす]  文部省唱歌

1 日のよくあたる庭前[にはさき]の
  垣根の梅が咲いてから
  毎朝来ては鶯が
  かはいい声[こゑ]で
   ほうほけきよう

    ニ、
  鳴くのを聞いて 縁側[えんがは]の
  籠の中でも鶯が
  垣根の方を眺めては
  調子[てうし]を合はせて
   ほうほけきよう 
    『新訂尋常小学唱歌 第二学年用』昭和7年(1932)


・ひばり  文部省唱歌

1 ぴいぴいぴいとさへづる雲雀
  さへづりながらどこまであがる
  高い高い 雲の上か
  声[こゑ]は聞こえて見えない雲雀

2 ぴいぴいぴいとさへづる雲雀
  さへづりやんでどこらへ落ちた
  青い青い 麦の中か
  姿かくれて見えない雲雀
    『新訂尋常小学唱歌 第二学年用』昭和7年(1932)


・織り成す錦   作詞者不詳

1 織り成す錦 さくらに すみれ
  いばらに ぼたん 春こそ よけれ
  鶯 ひばり こよ こよ こよと
  ともよびかはし さそへるものを
  われらがともも やなぎのかげに
  あそびて うたへ うたひて あそべ

2 春風ふけば みやまは わらひ
  みぞれや ゆきは ゆめのの かすみ
  ももとり ちどり こよ こよ こよと
  くるるもしらで さえづるものを
  われらがともも やなぎのかげに
  あそびて うたへ うたひて あそべ


・春の唄  野口雨情

1 桜の花の咲く頃は
  うらら うららと 日はうらら
  ガラスの窓さへ みな うらら
  学校の庭[には]さへ みな うらら

2 河原[かはら]で雲雀の鳴く頃は
  うらら うららと 日はうらら
  乳牛舎[ちちや]の牛さへ みな うらら
  鶏舎[とりや]の鶏[とり]さへ みな うらら

3 畑に菜種の咲く頃は
  うらら うららと 日はうらら
  渚の沙[すな]さへ みな うらら
  どなたの顔さへ みな うらら


・あの子のお家   北原白秋

  あの子のお家はどんな家
  野茨が咲いたと言つてゐた
  仔馬もゐるよと言つてゐた

  あの子のお家はどこいらか
  雲雀よ 空から見ておくれ
  よしきり よしきり 行て見よよ








   膝に上って来るひたちがとみにズッシリとしてきたな、と思って体重
   測定したところ、何と生後6ヶ月になる前にみやの体重を超してしまい
   ました。4キロ余りあります。見た目で言えば、みやより短く、みやより
   太い。丸々とした姿でコロコロポテポテ走って来ます。
   よって最近の愛称は「メタ坊」。



   みやは譬えるなら、真面目な女の子にありがちなやや狭量なうるさ型、
   何かというと授業中にサッと手を挙げて「先生、またひたち君が私の鉛
   筆舐めてます」などと訴えるタイプ。頑張り屋の生真面目が可愛いとこ
   ろですが、融通の利かない怒りん坊です。



   ひたちは毎日怒られるのに懲りずに追い回し、また、みやの方も毎日の
   ことなのに慣れずに怒り、結構激しい鬼ごっこが攻守入り乱れて繰り返
   されています。
   はじめは赤ちゃん猫と見て、幾分手加減してやっていたのでしょうが、
   いつのまにか巨大になった相手が、赤ちゃん時代のまま全身で体当たり
   し、のしかかってくるのですから、冗談の通じないみやには、それは
   深刻な脅威です。

   そのほかにも、ひたちは起きている限りは、一日中仔猫らしいいたずら
   を探して回る活動的な暮らしをしているのですが、その運動量を上回る
   食欲が、ひたちを今日も巨大化させております。






目次

このページのトップへ