毎日展「墨魂の昴」に天来の屏風展示

2018年7月4日

7月11日から8月5日まで、国立新美術館で開催される第70回毎日書道展。その特別展示「墨魂の昴ー近代書道の人々」には、近代書道の礎を築き上げた人々(明治維新から昭和20年の終戦まで)64人の作品が展示されます。

http://www.mainichishodo.org/special_events/

ここに、比田井天来作品が3点、小琴が1点展示されますのでご紹介しましょう。

 

まずは、大正7年に書かれた「信濃日々新聞社宛書簡」(佐久市立天来記念館蔵)。

前年火災にあった母校の再建のために、天来は「屏風百双会(屏風を百双書いて頒布する)」の売上を寄付すると発表します。地元の新聞が「書聖天来」と讃えましたが、これに対して、「書聖」は王羲之の称号であって、自分ごときに言うものではない。取り消してください。という手紙です。

最初は穏やかに書いていますが、だんだん興に乗って筆が動き、融通無碍ともいうべき雄大な表現になっています。

 

六曲屏風に「龍跳」二字。8年前に、佐久市立近代美術館全館を使って開催された「現代書道の父・比田井天来」展で大きな話題を呼んだ作品です。

大正9年、天来は49歳。新しい筆法がまさに完成しつつある時期の傑作だと言えるでしょう。躍動感が見る人を圧倒します。今後、いつ展示されるかわかりませんので、ぜひこのチャンスにご覧いただきたいと思います。

 

天来は昭和12年2月15日に東大病院に入院し、手術を待つ間に作品104点を揮毫します。これが収録されたのが、生涯唯一の自選作品集「天来先生戊寅帖」です。

手術を終え、4月に退院し小康を得ましたが、癌が再発し、鎌倉へ戻ります。これ以降の作品の多くは「天来老人」あるいは「画沙老人」という落款をもち、それ以前とは異なった雰囲気を持っています。

上の作品は、昭和13年11月、絶筆と同時期に書かれたもの。起き上がることができないので、ベッドに工夫をして寝たまま書きました。一字一字が切り離され、深い静けさを感じる作品です。

 

続いて、妻、小琴にうつります。かな作家でした。

結婚した頃の写真です。上右が天来(30歳)、中央が小琴(16歳)、なんと14歳も年が離れています。結婚前の二年間、阪正臣先生の内弟子として、家事手伝いや子守をしながら勉強しました。妻というより、天来の忠実な弟子だった、と息子、南谷は書いています。

天来が他界したとき小琴は54歳。その後は夫にかわって講習会に出講したり、教科書を書いたり、後進の育成に努めました。人柄そのままの素直で、古典の味わいを今に伝えるオーソドックスな書風が特徴です。

昭和23年64歳のとき、「筆草」を用いて書風に新境地を拓きます。

 

左が「筆草」。この作品は謡曲「羽衣」を書いたものですが、それまでの流れるような筆致と異なり、一種の「渋み」のような味わいを感じます。

この年の5月3日、小琴は64歳で他界しました。

これから作品が変わっていく! という時期でした。

 

さて、ここからは「筆草」のお話です。みなさん、見たことありますか?

二年前の3月、熊野町筆の里工房の「破壊と創造ー比田井天来・小琴 芸術書に捧げた生涯」展の講演で、上の筆草についてお話しました。

8月、毎日書道展広島展で、比田井天来の「黒木御所遺阯」の肉筆を展示してくださり、私を招待してくださったのですが、そこで、なんと、島根県にお住まいの佐々木龍雲先生のご令室、良子先生が、大量の筆草をプレゼントしてくださったのです! 講演を聞いてくださり、筆草を探してくださったのだそう。しかも、採りにいらしたときの写真まで!

 

筆草は「弘法麦」ともいい、海岸に生えるそうです。こんなふうに、段差のあるところにいいものができるそう。一番よい時期は寒い寒い1月。暖かくなると太陽にあたってぼろぼろになるので、ぎりぎり3月まで。夏になるとこの段差は水に洗われて、普通の砂浜になるのですって。

 

 枯葉を整理して、歯ブラシで水を流しながら砂を洗い落とすと

 

おお、筆の形になりました。

お友達と採取していらっしゃる写真もいただいているのですが、ここにアップしていいのかな?

許可をいただいたら、改めてアップしますね。

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書道