臨書

2018年6月13日

現代日本の書道界では、書の学び方の基本は「臨書」です。

ウェブの辞書では、「臨書」は「書道で、手本を見ながら字を書くこと。また、そのようにして書いた書」とあります。でも、先生のお手本を見ながら学ぶことを「臨書」とは言いません。手本はあくまでも「古典」です。つまり「臨書」とは、中国や日本の書の古典を手本として学ぶことなのです。

まずは、「古典の臨書」がいつ頃から書道教育の場で行われてきたのか、歴史をさかのぼってみましょう。

 

時は大正5年、中学校の書道の先生になるための資格試験が行われています。受験生は、成績がよく、字が上手い学生たちですが、「古典の臨書」まで勉強する必要はないと教えられてきました。ところが、実際に受験してみると、口頭試験に古碑帖(古い碑や法帖)の鑑識が加わっていたのです。

話が違う! 受験生はパニックです。

試験の内容を決めたのは比田井天来。天来は、大正4年に東京高等師範学校に習字科が創設されてその初代講師となり、翌5年に内閣教員検定委員となりました。それまでの検定委員はドイツ文学の菅虎雄や国文学の岡田正之など、学識経験者がつとめていたので、書の専門家が任命されたのは初めてです。

 

大正8年 北海道小樽

 

大正5年の文検について、野本白雲はこう書いています。

 翁が、文部省の検定委員になられると、口頭試験に突如としての鑑定をなさしめたのである。それまでの文検はただ小器用に文字を書けば能事おわれりとしていたのであった。中等学校の習字科の教員がかくの如きことではどうにもならんというわけで、古法帖の臨書も課し、これの鑑定までもなさしめるようにしたのである。このことが今日の書道向上にどれほど効果があったか、いわずして知りうるであろう。(中略) 

そこで面白いことがあった。その頃文検受験生を養成していた某氏が、ある書道雑誌の記者の需めに応じて、(中略) 文検には古法帖まで手を延す必要はないと、断言したのである。その記事の出た翌日に文検があり、しかも天来翁の改革意見によって突然古法帖の臨書が試験されたのであった。実に気の毒でもあり、一面愉快でもあった。(『書道』)

 

この証言によって、それまで重視されていなかった古典臨書が、天来によって初めて表舞台に立ったことがわかります。ではなぜ、古碑帖の鑑識が重要なのでしょう。

「いやしくも趣味としまた芸術として書を学ぶ者は、先生につくのもよいが、先生の流儀に固着してしまってはよくない。先生についても、その将来の手本とするものは古法帖および古碑版でなければ大成することはできない。」(比田井天来)

先生の手本を学ぶことの弊害はほかにもあります。

弟子が先生のまねをすると、必ず先生以下の実力しか持つことができない。さらにその弟子の実力はそれ以下になるから、日本の書のレベルはどんどん下がってしまう。これをくいとめ、書が優れた芸術になるためには、古典の臨書しかない。

 

大正8年、天来は書の総合的研究機関の構想である「書学院建設趣旨書」を発表しました。原文は文語体なので、要点を現代語訳してみましょう。

 書は昔から東洋で尊重されている。優れた書は、作者の心が芸術的に美化されて点画の中で活躍し、見る人の心と共鳴して高遠な妙境に導き、俗世間から超越できる。さらにこれを学べば、心は霊妙な暗示を得、いかに偉大な感化を受けることであろう。

 一時期書道が衰退した理由は二つある。一つは人間がこざかしく誠意に欠けたこと。もう一つは細かい流派に分かれ、書の大海を忘れてしまったことだ。書の大海とは歴代の古典名品である。ああ、流派はなんと我が文芸に害毒を与えてきたことだろう。今こそ従来の弊害を打破し、書道研究の一大革新をはかる時だ。誰でも歴代大家の劇蹟を閲覧でき、自由に古典を選んで学べる研究所として書学院建設の急務を絶叫するものである。(天来)

 

書学院建設に賛同する人々の署名

 

天来の考えた古典の臨書。それは当時の書家だけでなく、日本の伝統を大切にする政治家や文化人にも支持されました。

では、天来が考えていたのは「古典の臨書」とはどのようなものだったのでしょう。次回は臨書の意味と方法について書きたいと思います。

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