阪 正臣(ばん まさおみ)(安政2年・1855~昭和6年・1931)、本姓は坂(さか)。幼名は政之介、字は従叟。号を芽田、観石、桃坪といい、斎号を樅屋といった。
丹羽海鶴(文久3年・1863~昭和6年・1931)は名を金吾といい、後に正長と改めた。岐阜県恵那郡田瀬(現在の中津川市田瀬)に生まれた。幼少 →続きを読む
近藤雪竹(1863~1928)は日下部鳴鶴門の四天王の1人と云われた。他の3人の内、渡邊沙鷗、丹羽海鶴とは同年生まれで、比田井天来(1872 →続きを読む
松田南溟(1860・万延元年~1929・昭和4年)は三重・鳥羽藩士松田一郎の長男として生まれた。名は舒。南溟はその号である。家は代々鳥羽藩の →続きを読む
日下部鳴鶴朱筆書き込み本『段氏述筆法(だんしじゅつひっぽう)』について、少し述べてみる。 清の段玉裁(雍正13・1735~嘉慶20・1815 →続きを読む
楊守敬の項にも書いたが、明治13年4月に来日した楊守敬を、日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯が訪問している。松田雪柯の日記により、7月17日に訪 →続きを読む
日下部鳴鶴(天保9年・1838~大正11年・1922)は彦根藩士・田中総右衛門の第2子として江戸の藩邸で生まれた。幼名は八十八(やそはち)、 →続きを読む
墨田区向島2丁目、隅田公園の北端に三囲神社がある。この三囲神社の境内に「秦蒙将軍之象」という石碑が建っている。
楊守敬(1839~1915)は湖北省宜都の人。字は惺吾、晩年は鄰蘇老人の号を用いた。
貫名菘翁(1778~1873)について少しふれてみたい。