中村不折(なかむらふせつ)(慶応2年・1866~昭和18年・1943)、本名は鈼太郎。中村源蔵、りゅうの長男として、江戸京橋東湊町で生まれた。父の源蔵は書役・名主補佐を務めていたが、維新の混乱に巻き込まれて失職。不折5歳の時、母の郷里である長野県高遠に帰ることになった。ところがそこでも源蔵の仕事はうまくいかず、伊那や松本に職を求めて転々とする生活が続いたという。この間に漸く小学校を了えた不折は最初、上諏訪町の呉服店に、後に高遠の菓子屋に務めた。
この頃、何とかして学問や芸術の道に進みたいと思い、勉強したい一心から早く起き、早く仕事を終えることで時間をつくり、漢学や南画、書を習ったという。努力の甲斐あって、明治17年(1884)、18歳で郷里高遠の小学校代用教員に採用されることになった。後、伊那、飯田で図画の教師を務め、その間も書画の勉強に一層励んだのだった。飯田の小学校では教え子に、日本画家となった菱田春草がいたという。
明治20年(21歳)、画家になるという決意で、3年間の教師生活で蓄めたお金を持って不折は上京した。伝手を頼りに高橋是清(当時は特許局長、後に第20代内閣総理大臣となる)邸の空き部屋、三畳一間を借りて自炊生活を始めたのであった。そして小山正太郎の主催する「不同舎」に入門した。小山正太郎(1857~1916)は越後長岡藩・藩医の家に生まれ、15歳の時、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に学ぶ。後、東京高等師範学校教授として図画教育普及に尽力する。「不同舎」という塾名は、小山の指導理念に由来する。人によって指導に仕方を変え、自分の作品に弟子たちが影響されないようにするため、自筆の油彩画は殆ど見せず、弟子たちの個性を尊重した。同僚に浅井忠、門下には不折の他、青木繁、荻原守衛等がいる。
不折は「不同舎」の10数年間、風景画を中心に絵画の勉強に打ち込み、素描の訓練を積んでいった。明治23年、明治美術展に水彩画を出品し、26年には油彩画を3点出品。画家としてのスタートを切ったのであった。
新聞や本、教科書に挿絵を描いて生計を立てていた不折は、日本新聞社に於いて生涯の友となる正岡子規(1867~1902)と出会った。明治25年12月、不折26歳、子規25歳の時である。またこの頃、不同舎の後輩・荻原守衛との交流を深めている。
中村不折書(最晩年の代表作) 五言律詩「贈鄭溧陽詩」
明治28年(1895)、不折は日清戦争の従軍記者として中国に渡った。遼東半島や朝鮮各地のスケッチ旅行をしている。この事は後、不折の書に目覚めるきっかけともなっている。
明治34年、不折はパリの「アカデミー・ジュリアン美術学校」に留学した。ローランスに師事し、人物画を学んだ。この留学中、絵画の勉強の合間を見つけては、携行していった「龍門二十品」「書譜」等の臨書に没頭していたという。パリという西洋美術、絵画の本場で、日本、東洋の書の独習の励んでいたということは、“書は果たして芸術として存続し得るか”という問題意識を持ち続け、この大命題に積極的に取り組んでいたということの証であろう。36年には荻原守衛がニューヨークからやってきた。守衛は不同舎の先輩である不折が、ここで苦労している姿に勇気付けられたという。そして種々の誘惑の多いパリで、金銭の裕りのない2人は、ひたすら自分の研究に没頭していったという。
4年間の留学を終えて帰国した不折は、太平洋絵画会会員となり、西洋の技法による東洋画風の作品を発表している。丁度その頃の中国は、清朝崩壊後の戦乱期で、大量の文物が巷間に流出していた。そこで不折は書資料の蒐集を始めたのであった。結果、生涯に集めた品物は、1万数千点にのぼったともいわれている。
帝国美術院会員、芸術院会員として展覧会活動を行う一方、太平洋美術学校校長として、更新の育成にも多大な尽力をしている。
昭和11年11月3日、東京根岸の住宅に「書道博物館」が開館した。不折自らが蒐集した書の資料1万数千点を保存・公開したのであった。これは日本の書道界に対する一大功績である。
「書道博物館」はその後、東京都台東区に移管され、現在は「台東区立書道博物館」(東京都台東区根岸2-10-4・TEL03-3872-2645・JR鶯谷駅北口下車、徒歩5分)として、重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16,000点が随時公開されている。
書道博物館蔵品
左・唐 顔真卿「建中告身帖」 右・後漢「急就章塼」
書人としての不折は、明治40年(1907)に発足した「談書会」に幹事として参加し、研究者、蒐集家としても一目置かれていた。書風は王羲之のような定形の姿ではなく、中岳嵩高霊廟碑、広武将軍碑、爨宝子などを学んで、自由な表現をしたものであった。また、書の依頼があると、早速に書き上げ、どんな注文にも依頼主を待たせることなく仕事をこなしたという。
中村不折書「撥雲尋道」
中村不折書「延年益壽」