10年ほど前に鵞堂の4代目の方々が中心となり、「小野鵞堂遺墨刊行会」が結成され、『小野鵞堂遺墨集成』が上梓された。発行は「斯華会(このはなかい)」、発売が「芸術新聞社」であった。編集・制作を担当した友人のY氏から、編集の苦労話、特に作品図版の収集に手間取ったこと、発売元を探すのに大変だったことなどを聞かされた。

A4ハードカバーの立派な遺墨集成の序文を、鵞堂の孫の1人、元某大学々長の小野一成氏が書いておれれるので、かいつまんで御紹介させていただく。

鵞堂は人となりが穏やかで、家人にも他人にも、荒い言葉ひとつかけなかったという。容貌魁偉で壮士のような体格であったが、体に似ない優しい字を書く、と褒めたのかけなしたのか判らない批評をよく言われたそうである。鵞堂流が有名になったので、小野の家は文雅の血統と思われる時もあるが、実は逆で鵞堂の父の代までは、剣術と弓術の指南役、つまり武芸専門職として3代にわたって君主に仕えてきたという。

鵞堂の3代前である曽祖父、初代小野成誠は、伊予松山藩士の子息で、剣術の才があったので、自ら浪人し、各地で武者修行を積んだ。その腕が見込まれて、東海道藤枝の田中藩本田氏四万石に召し抱えられた。享和2年(1802)のことである。そろそろ幕末の動乱期に入るやや前で、光格天皇、徳川11代家斉の時代。天皇家、将軍家共に、在位年が比較的長く続いた安定期であったが、米国、魯国などの外国からの圧力がかかり始めた頃でもあった。

2代成顕、3代成命は真影流剣術、日置流弓術の師範を勧めたが、成命という人がすごかった。身の丈は6尺、剣と弓ばかりでなく、槍、馬術、柔術にも優れ、殿様から「五秀」の号を賜った程であった。通称勘之助、あまりの強さに世間では「鬼勘」と呼ばれていた。鵞堂はその息子に当たり、書の稽古のあい間には庭に出て、かなり強い弓を引いていたという。

鵞堂は文久2年2月に藤枝城内の侍屋敷で生まれた。しかし明治元年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いの後の混乱で、田中藩は房州長尾(現在の千葉県南房総市白浜町)へ国替えとなってしまった。そして明治4年の詔書により、廃藩置県となり武士がなくなってしまった。鵞堂10歳のことである。鬼勘といわれた父・成命は健康を害し、明治6年、あっという間に他界してしまった。残された鐧之助・鵞堂は12歳の子供ながらに、東京に出て身を立てようと決心し、単身上京、日本橋小田原町の相模屋という魚問屋の奉公人となった。相模屋に1年ばかりいたが、武士の子を魚屋にしておくのは可哀そうだと世話をする人があり、当時有名な学者・成瀬大域の門人となった。

小野鵞堂書「壽無涯」

小野鵞堂書「天地開新意」(大正7年)

小野鵞堂が成瀬大域(文政10年・1827~明治35年・1902)の門人となったのは、明治7、8年で、大域が47、8歳の事である。大域は本名を温(ゆたか)、字を子直、通称は久太郎、賜硯堂主人の斎号がある。遠江国佐野郡日坂(現在の静岡県掛川市日坂)の出身。明治初年に上京。漢学を安井息軒、川田甕江等に学ぶ。明治8年、宮中に出仕。12年、勅命により王羲之の『集王聖教序』を臨書して献上。明治天皇はこれを嘉して、楠木正成の遺物である尚方の硯を下賜した。賜硯堂の主人の斎号はこれによる。

鵞堂は大域門下で本格的に漢学、国文学を学んだ。もちろん書道もであった。文人としての教養ということで、“二玄琴”まで学んでいる。最後は塾頭までつとめたといわれているので、かなり勉強したのだろう。またこの頃、国史、和学、神学を小中村清矩(文政4年・1821~明治27年・1894)に学んでいる。鵞堂は幼いころから書の手筋が良かったらしいが、大域塾で益々磨きがかかった。能書が買われて、書記として大蔵省に務めるようになった。21歳で旗本の娘であった佐久間千鶴子と結婚した時は、辞令課勤務であった。その頃から独学で仮名古筆の研究をしていたという。

鵞堂の書の評判も段々広がっていき、大蔵省の給仕たちに無料で手本をかいてやると、貰った人は喜んで盆暮れには砂糖などを持って礼に来たという。ところが、明治22年(1889)、勤めの余暇に書いた古今和歌集の序の手本を出版すると、新鮮な書の姿が大好評で良く売れた。それが仇となったのである。大蔵省の上層部で、小野はもう書家として立派な仕事もしてやっていけるのだから、何も大蔵省にいることはない、ということで免職になってしまったのである。鵞堂自身はまだ書家としての地位はできていなかったのに、役所を罷めさせられたということで、一家はたちまち困窮してしまったのであった。

これを救ってくれたのが、『日本新聞』の社長で国民主義の陸羯南(くがかつなん)(安政4年・1857~明治40年・1907、本名實)であった。陸は弘前藩の御茶坊主・田中謙斎の子で、陸奥国弘前在府町に生まれた(長じて親戚の陸氏を嗣いだ)。東奥義塾、宮城師範に学んだがいづれも中途退学。司法省法学校も学内の紛争に対しての義憤から、原敬、福本日南、加藤恒忠、国分青崖と共に退学している。後に太政官政府に勤め、文書局に次いで、内閣官房局編輯課長を務めていた当時、小野鵞堂とは知り合った。鵞堂は羯南の5歳年少である。

小野鵞堂は明治23年、書の研究団体「斯華会(このはなかい)」を設立した。そして機関誌『斯華之友』を創刊している。これによって更に鵞堂の書法は世に知られ、数十種の手本類が次々と上梓され広まっていったのであった。その書風は平明にして清楚で、「鵞堂流」と命名され、仮名書道の愛好家たちに受け入れられ普及し定着していったのであった。一世を風靡した鵞堂流にも、暗い影を落とす事件が起きた。多大な信頼を寄せ、世間からもまた鵞堂自身からも、「斯華会」の、そして鵞堂流の後継者として目されていた三男の小鵞が、大正9年、26歳の若さで病没した。鵞堂流にとって大損失であった。愕然とした鵞堂は気力をなくし、2年後の大正11年、60歳で亡くなってしまった。

華麗典雅な鵞堂流も、これを境に衰退していくことになってしまった。鵞堂は次世代を担う多くの書道人を養成した。門下には、中村春洞、神郡晩秋、伊藤芳雲、高塚竹堂など書壇の重鎮も多く、その門流には現書壇の主軸をなしている名家の名が数多く見られる。

小野鵞堂書・三十六歌仙の一部