山本竟山(やまもときょうざん)(文久3年・1863~昭和9年・1934)、名は由定。繇定とも書いている。幼名を卯三郎、のち父の名を継いで卯兵衛を名のっている。岐阜県松屋町で紙商を営む父の長男として生まれた。号は岐山、後に竟山と改め、別号に聲鳳、金華山民などがある。斎号を餘清齋とした。


明治10年(1877)、はじめて書を神谷簡齋に学ぶ。その後、岐阜に滞在中の王鶴笙から篆隷楷行書を学んでいる。明治21年(1888)岐阜に来遊した日下部鳴鶴を訪ね、入門の礼をとっている。ただ実際に指導を受けるのは明治31年を過ぎてからになる。


明治24年(1891・28歳)、美濃の大地震に被災し、大破した家に再建に尽力するが、これを期に書と学問で身を立てることを決意した。


明治35年3月、日下部鳴鶴より中国の楊守敬を紹介され、初めて中国を訪れる。武昌で楊守敬に厚遇され、碑法帖類を多数得て帰国した。そして翌年には再び中国に遊学し、呉昌碩等を訪ね、湖州では璉鎮で製筆工場を見学している。端方蔵の三代彜器や晋唐の名品類を鑑賞したり、楊守敬の隣蘇園を訪ねたりし、帰国の際は、「皇甫誕碑・丞然本」「宋拓争坐位帖」「餘清齋帖(楊守敬蔵本で後の書学院本)」等の名品を購入している。


明治37年、台湾の総督付けの秘書官として、台北に移居した。明治45年に帰国するまでの間、中国本土を度々訪れ、古碑版法帖類を多量に入手している。またこの後も2度中国を訪れ、たくさんの金石碑版法帖類を購入している。この事は竟山がそれまでに築き上げた中国との太いパイプによっていることが第一に上げられる。


台湾から帰国後の竟山は京都に住んだ。京都大学内に学書道場を設置し、書の研鑽、書学の研究の場とした。また「平安書道会」の前身ともいえる「金曜会」を主宰したり、京都府立図書館において「和漢法書展覧会」を独力で開催した。古碑法帖類の出版も数多く手がけ、自分自身の臨書集も数多く出版している。また西日本を中心に、石碑、門標類も多く揮毫している。

五言詩横披・書き出し部分と落款部分(高橋蒼石蔵)

  

竟山の学書の根本は、古碑法帖類の臨書が第一であるが、「個性」ということの意識が強く、無意味な模倣を嫌っていたという。創造性、独創性を豊かにするために、古典の臨書を指導した。


竟山の表現は情懐に満ち、書かれた文字には古典の臭いがする。強く骨気を感じられる書が多いように思える。

左・心静即身涼        右・臨張金界奴本蘭亭序

 

左・幽人来問籬辺菊       右・臨宴敦銘
僊客相論海上琴           

 

 

雲煙養寿

 

臨萊子侯刻石

 

宇内大文廿四史書中工楷三十行