中林梧竹(文政10年・1827~大正2年・1913)は、肥前国(佐賀)小城鍋島藩士・中林経緯の長男として小城新小路に生まれた。名は隆経、通称を彦四郎。勇馬・勇吉郎ともよばれた。字は子達。梧竹は号である。別号は沢山ある。一個閑人、忘言、不染、堡居士、鳳栖軒、剣書閣、九鳥、爽翁、蓮峰、煙霞中人、五雲山人、金剛山人、潮々老人、九州一草庵主人、金田野人などである。


幼い頃より神童といわれ、10歳に揮毫した神社の額を見た藩主は、「この子は将来家ならず書を以て名を成すにちがいない」と感嘆したしたと言う。そして藩主より、米100俵を奨学の為に給わったという。


書は藩内の書家・水町空斎に学び、儒学は隣藩の草場佩川に学んだ。天保12年(1841)、15歳の梧竹は小城鍋島藩々校の興譲館に入学。また20歳のころ藩命により江戸に留学している。この留学の年令に関しては、他に数説あり、定かでない。江戸に出た梧竹は山内香雪の門人となるが、後には香雪の師である市河米庵にも直接書を学んでいる。


山内香雪(寛政11年・1799~安政7年・1860)は会津藩士。文政3年(1820)江戸に出て亀田鵬斎、大窪詩仏に学び、市河米庵の門に入る。後に江戸に私塾を開き、書や詩を教えた。名は晋。字は希逸。通称は熊之助。別号は一枝堂。「梅花集」等の著作がある。


市河米庵(安永8年・1779~安政5年・1858)は、漢詩人・市河寛斎の長子。寛斎、林述斎、柴野栗山に詩を学び、長崎に遊学して書を清国の胡兆新に学ぶ。その後、唐の顔真卿、宋の米芾の書を敬慕しその書法の研鑽に務めた。米庵の号は米芾に因んでいる。20歳で江戸に書塾を開き、門人はのべ5000人であったという。80歳で没し、墓は東京西日暮里の本行寺にある。


梧竹が江戸に上った当時の幕末期は、それまで流行していた和洋の書の代表的な公用体であった御家流も衰退し。代って中国宋元明代の唐様の書が盛んであった。米庵はその唐様の書の代表的な書家として、幕末の三大家と称される巻菱湖、貫名菘翁と共に、大変な人気ぶりであった。


この頃の梧竹の書は殆ど遺っていないが新潟市の「雪梁舎美術館」に23歳の時に書いた扁額が蔵されている。


30歳の時、一時郷里の小城に帰って興譲館の指南役となり、後進の指導を行っている。その後もしばらく藩政に関わり、御供頭、御側目付兼奥御懸硯方、等の役職に当たっていたという。

左:慈恵  右:共酌芳酒


光通九華殿
華満萬年枝                                                   
                            
                                                                         

左:「父癸鼎銘」の臨書原本          右:中林梧竹臨「父癸鼎銘」
  「積古齋藤鍾鼎彝器款識」ー部分ー                   


慶応3年(1867)、大政奉還されたこの年、中林梧竹は妻(藩士・星野九右衛門の妹)宇称と離別している。どのような理由があったのかは定かでない。この頃からしばしば長崎を訪れ、清国の商人・林雲逵より書法を学んでいる。それは約十年間に及んだ交際であったという。これによって山内香雪、市河米庵の書から徐々に遠ざかっていったと思われる。梧竹は明治4年の廃藩置県まで、小城藩士としての役職を全うし、退職後は書に専念する生き方を選んだのであった。


明治11年(1878)、清国領事館の理事官として長崎に赴任してきた余元眉と知り合うことになる。この余との出会いにより、梧竹の書は一大転機を見ることになった。梧竹は余が携行してきた多くの古碑法帖類を研究し、習い、それまでの書風を一変させたのであった。


当時の中国は、清朝中期に興きた碑学派の台頭により、金石古文の研究も盛んになり、漢魏六朝の書を学び、その筆意を汲んだいわゆる六朝書風が流行していた。鄧石如に代表されるこの流れは、呉譲之、何紹基、楊峴、趙之謙、呉大澂、楊守敬等に受け継がれていた。潘存もこの名家達の一人で、余元眉や、明治13年に来日する楊守敬(1839~1915)の師匠にあたる。


潘存(1818~1893)は海南島文昌の生まれ。字は孺初。威豊元年(1851)の挙人で、戸部主事に命ぜられた。退官後は故郷に帰り、瓊州書院で教鞭を執った。


明治15年10月、余元眉の帰国に伴って、梧竹は清国に渡った。上海、天津を経て北上し、北京に入った。そして、余元眉の師匠である潘存について書法を学ぶこととなったのであった。梧竹55歳のことである。更に、政治上の権力者の一人で、当時、直隷総督兼北洋通商大臣であった李鴻章の識るところとなり、李の経営する銀行の楼上に起居し、便宜をはかってもらって中国各地を巡り、古碑名蹟を尋ねている。明治17年4月に帰国するまでの、足掛け3年に亘る滞在中は、書の研鑽に励み、多くの知識を得、古碑法帖類を収集したのであった。


帰国してまもなくの7月、副島蒼海等の紹介により、東京・銀座2丁目店の洋服店「伊勢幸」に寄寓することになった。この「伊勢幸」での生活は約30年間続いた。
                                                               

富士山頂、浅間大社奥宮、鳥居の右側に建つ銅碑「鎮国之山」(中林梧竹書)

                                                 
明治31年(1898)、梧竹は富士山頂の銅碑「鎮国之山」を揮毫、8月3日に登頂して除幕式に参列している。

この「鎮国之山」碑について、友人で梧竹愛好家の森田和雄氏(「梧竹の会」会報編集長)が、平成17年7月31日に富士山頂で碑面の採拓、調査をしている。その調査記録が、同年11月、甲府市にある書道団体展の特別展として開催された「富岡敬明と従弟中林梧竹展」の図録の解説部分に掲載されている。


 碑陽   明治三十一年歳次戊戍七月吉之日肥前國

      鎮国之山

      梧竹中林隆経登富士山時年七十有二書立

 碑側・左 協賛者長野縣下伊那郡原久右衛門木下與八郎

 碑側・右 再建の辞

中林梧竹先生は文政十年(一八二七年)佐賀県小城町に生る。

名は彦四郎。号梧竹。大正二年(一九一三)八十七歳にて歿す。先生は幼時より天才を藩公に認められ、十八歳の時江戸に出、儒学と書を学ぶ。明治維新後李鴻章の招きをうけ中國に渡り、書道の奥義を極め、中國第一流の書家として認められる。明治十七年中國より帰國。名実ともに日本の第一人者となる。七十二歳の時、日本の将来を慮り、浄財を募りて古来國の鎮の山と崇められたる富士に本碑を建つ。

先年落雷の為この碑は破壊さる。私は先生の愛國の至情に敬意を表し、ここに碑の再建を行ふ。

昭和四十二年七月吉日 カルピス創始者 九十叟 三嶋海雲

 碑陰   擔當 菅原大三郎  天岡均一

      鋳造 阿部繁次郎

これが碑全文である。


中林家の遠祖が信州であったため、梧竹も時々信州を訪れている。そこで知遇を得た富士講(不二教、後の大日本実行会)の原久右衛門や、町制初期の飯田町長を務めた木下與八郎等の協賛を得たのであろう。


右碑側に再建の辞があり、落雷の為壊れた碑を山頂より、カルピスの創始者・三嶋海雲(1848~1974)が、ヘリコプターで降ろし、修復して再建したとある。実は海雲はこの時レプリカを造っている。東急東横線の代官山駅近くにある、旧カルピス本社ビルの敷地内に、原様大のブロンズ碑があるという。一度探し訪ねてみたいと思っている。(現在は佐賀県小城市が譲り受け、天山8合目にあるようだ)


前掲の富岡敬明(1822~1909)は、梧竹の母の姉の子で従兄にあたる。維新黎明期の明治5年(50歳)で山梨県権参事(副知事)を務め、明治9年から24年まで熊本県知事。その後山梨に戻り、一地方役人として、詩を作り、書を書いて過ごした。明治33年、男爵を授かっている。


大正元年10月16日、梧竹は銀座の理容店で中風を発してたおれた。突然の事であった。その後、療養しながらも作品は書き続けた。


翌大正2年5月10日、住み慣れた「伊勢幸」を後に、帰郷。そして、8月4日小城郡三日月町「梧竹村荘」で死去した。


中林梧竹臨「集王聖教序・般若心経」

                                                           
梧竹の碑をもう一つ紹介する。集王羲之書「般若心経」の臨書碑。千葉県成田市成田山新勝寺境内、前橋講碑林に建っている。高さ約120cm、行30字、全9行に書かれている。これはその拓本である。