犬養木堂照影

犬養木堂(安政2年・1855~昭和7年・1932)名は毅、通称仙次郎、木堂は号。他に子遠の別号もある。備中国賀陽郡庭瀬村(現在の岡山市北区川入)に、大庄屋で郡奉公を務めたことのある犬飼源左衛門の次男として生まれる。後に木堂自身が犬養と改めたが、庭瀬村一帯に犬飼の姓が多かった為と思われる。

明治9年(1876)に上京し、慶應義塾に入学。共貫義塾に通ったり、二松学舎では漢学を三島中洲に学んだ。明治13年(1880)、卒業を前に「郵便報知新聞」(後の報知新聞)の記者となっている。16年には大隈重信が中心となった立憲改進党の結成に参加し、大同団結運動などで活躍した。明治23年に行われた第1回衆議院総選挙で当選し、以後42年間18回連続当選し続けた。この記録は木堂と共に世間で ”憲政の神様”と呼ばれた尾崎行雄(安政5年・1858~昭和29年・1954、号は咢堂)に次ぐものであり、清廉潔白な政治家として知られた。また、この2人については或る新聞記者の評に、”咢堂が雄弁は珠玉を盤に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く”と語られたという。木堂は一時、政界から引退し、富士見高原の山荘に引き籠ったことがあったが、世間は木堂の引退を許さないとし、地元岡山の支持者達は木堂には無断で立候補を届けて、衆議院議員選挙で当選させ続けたという。

明治31年(1898)、第1次大隈内閣の文部大臣と務め、以後、逓信大臣、外務大臣、内務大臣を歴任し、昭和6年(1931)、第29代の内閣総理大臣となった。
木堂は政治以外でも神戸中華同文学院、横浜山手中華学校の名誉院長、校長を務めている。明治40年には頭山満(木堂と同年生~昭和19年・1944)と共に中国を漫遊したり、辛亥革命後に、日本亡命中の孫文を生家にかくまったり、同じく蒋介石を庇護したりした。昭和6年に満州事変が勃発し、経済再生、満州事変処理の課題を背負っての総理大臣就任であったが、経済面では高橋是清大蔵大臣起用によって、不況の打開へ取り組んだ。もう一つの課題であった満州事変の処理は困難を窮めた。木堂は軍部から満州国承認を迫られたが、これを拒否し続けた。孫文、蒋介石との交流以来の中国との間の独自の関係ルートによって外交交渉による事態の解決を目指したのであった。

  


左・墨箱の題字 
中央・墨箱の内側。木堂書。
右・墨「千歳苓」。孫文の移枢(靈)式に参列した帰りに、孫文の遺品として贈られた。
(犬養木堂旧蔵・高橋蒼石蔵)

  

木堂の心底には、やはりアジア文化の多方面に渡る造詣の深さや、漢学の素養、文人としての趣味、思想が流れていて、軍部の一方的な全体支配には、どうしても納得できないものがあったのである。
軍との確執が深まるばかりであったその中、昭和7年5月15日、あの“五・一五事件”が起きた。犬養毅・木堂のいた首相官邸以外に、内大臣官邸、立憲政友会本部、 警視庁本部、変電所、銀行等が襲撃されたが、そちらの方は、重軽傷者数名ということであった。
5月15日は日曜日で、木堂は官邸で休日を過ごしていて、夫人、秘書官、護衛官たちも外出して留守であった。夕方5時27分頃、表門から5人、裏門から4人の海軍中尉以下9人陸海軍の青年将校たちが侵入してきた。まず、警備の警察官を銃撃して重傷を負わせた。警官1人は11日後に死亡している。
木堂の孫で作家の犬養道子の自伝的小説『花々と星々と』の中に遭難の様子を、母と女中の証言により詳しく書き記している。それによると、

海軍と陸軍の青年将校ら5人が首相官邸に突入してきた。丁度夕食前であったため、食堂に向かっていた祖父、母、弟に遭遇し、やにわに一人が祖父に向かって銃の引き金を引いたが、弾丸は出なかった。「まあ、せくな」ゆっくりと、祖父は議会の野次をおさえる時と同じしぐさで手を振った。「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い」そう言って日本間へ誘導して、床の間を背に、中央の卓を前に座り、煙草盆を引き寄せると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を構えて立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」と言った。その時、前の五人よりはるかに殺気立った裏門からの後続四人が走り込んで来て、「問答無用!撃て!」の大声がして、次々と九つの銃声が続き、そして走り去っていった。母が日本間に駆け入ると、こめかみと顎にまともに弾丸を受けて、血汐の中で祖父は卓に両手を突っ張り、しゃんと座っていた。指は煙草を落としていなかった。母に続いて駆け入った女中のおろおろすがりつく手を払うと、「呼んで来い、いまの若いモン。話して聞かせることがある」と言った。
午後六時四十分に医師団の最初の発表があり、こめかみと顎から入った弾丸三発。背にも四発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命はとり止める」ということであった。父・犬養健が大きく笑って言いに来て「お祖父ちゃん、冗談言ってさ、いつもと同じだよ。九つのうち三つしか当たらんようじゃ兵隊の訓練はダメだなんて言ってるよ」と。しかし結局、午後十一時二十六分、祖父の顔に白布がかけられた。

こうして、犬養木堂は亡くなった。やさしさと気骨のある信念の人であった。

犬養木堂より比田井天来の推薦状

書学院建設趣意書の署名

  

木堂と比田井天来との交流は世に知られるところで、書学院建設趣意書に各界の著名人が賛同して、連名で著名しているが、その筆頭が犬養木堂である。

書学院(横浜元町)で軸物の整理をしていて、佐久間象山の書翰の茶掛を見つけた。宛先は恩田頼母、借金1200両の覚書き書翰である。そして箱書きが犬養木堂であった。気合の入った、実に堂々たる書であった。


犬養木堂の、書に対する考え方が、交詢社(明治13年・1880、創立者福沢諭吉他)から発行された、『木堂翰墨談』(全4巻)という本に書かれている。第一巻「書談付跋尾」、第二巻「紙談付印章」、第三巻「硯談」、第四巻「墨談・付録・篠本二郎硯説」という構成で、木堂の講話の筆記録をもとに編集されたものだけに、木堂の口調が読んでとれる。また書学者の文章と異なり、平明で読み易く、“素人の知識、見聞”と言いながら、内容は奥深く、含蓄があり、強い口調に引き込まれていく感がある。木堂の思いを如実に表わしている言葉をいくつか紹介してみる。

 書を学ぶに三箇条ある。第一は天分、すなわち天賦の器用。第二は多く見ること。見ることが少ないといけない。古来の書を多く見ることである。第三は多く臨書すること。手習いをすることである。
 字はどうやって書くか。字は手の芸ではない。面の芸である。実際面(つら)の皮が厚くなれば下手でも書ける。字を手の芸と思うあいだは駄目だ。面の皮が厚くなってくれば、もうしめたものだ。なあに、人が見て笑おうが、そんなことには頓着しない。そうなると、どんな拙筆でも巧くなる。その証拠には、禅宗の坊主の字を見るとそうだ。坊主はなかなか忙しい。手習いなどする時間はもたない。ところが禅坊主の書いたものは、どこかに気韻がある。手習いはしないが、高僧になると、巧拙はもとより眼中にない。だからどんな拙筆でも一種の気韻がある。
 形似を求めずして精神を得るという一事は、いわゆる、“以心伝心”である。多く学ぶ間にこれを得る外はない。古人も言っている。「気韻は天成にて、その人に存す」と。俗書家が運筆巧みであっても気韻がないのはこれである。ただし、気韻を単に天成と断定するのはまだ十分とは言えない。気韻は読書と心的修身から生ずるもので、かならずしも天成ではない。


宋詩集句 絹本双幅
京都嵯峨野・料亭「嵐亭」の大広間にかけてあった作品。移転後、行方不明。


扁額「鶴群」。五十歳代の作品か。