内藤湖南(慶応2年・1866~昭和9年・1934)は南部藩の鹿角郡毛馬内(現在は秋田県鹿角市十和田毛馬内)に内藤調一と容子の二男として生まれた。本名は虎次郎、字は炳卿。父の調一は幕末の混乱期、苦労して江戸に留学した。また、吉田松陰、頼山陽にも傾倒したことがある。東洋史学を学び、教職にあった人で号を十湾といった。湖南誕生の地毛馬内を含む当時の鹿角郡は、北は津軽、南は秋田に囲まれた南部藩の飛び地であったが、明治になって秋田県に組み込まれた経緯がある。虎次郎の号“湖南”は十和田湖の南ということに由来している。


湖南は12歳の時、父十湾に『日本外史』を学び『左伝』も読んでいる。13歳で初めて漢詩を作り、16歳の時、明治天皇北遊に際し漢文の奉迎文を作っている。その翌年の祖父33回忌の時は、漢文で祭文を作っている。


明治16年(1883)秋田師範中等師範科に入学するも、編入試験を受けて高等師範科に移っている。18年、秋田師範を卒業し北秋田郡綴子小学校首席訓導となって校長の職務を兼ねている。


明治20年、小学校を辞職して上京。大内青巒主宰の仏教主義の雑誌『明教新誌』の記者となった。この年から英人・米人の二人から英語を学んでいる。翌21年に『万報一覧』の、22年には尊皇奉仏大同団の機関誌『大同新報』の編集を担当した。


明治26年(1893・27歳)、大阪朝日新聞社客員主筆の高橋健三の私設秘書となり、翌27年には大阪朝日新聞社に入社し記者となっている。


高橋健三(安政2年・1855~明治31年・1898)という人物は、元尾張藩士の家に生まれ、太政官政府官報報告掛、官報局長を経て、大阪朝日新聞に入社。その後再び官界に入り、内閣書記官長になったが、主義主張が合わず、新聞紙条例改正問題で辞任。後、体調を崩し肺結核の為、42歳の若さで亡くなっている。湖南は生前の恩義を想い、亡くなった年の末に『高橋健三君伝』を書いている。


明治32年(1899)、湖南は初めて中国本土に渡り、東北から江南地方を巡った。3ヶ月余りの旅行中、巌復、方若、文延式、張元済、羅振玉等と面会している。その後も中国西域、中央アジアの遺跡発掘後の調査等を行うなど、度々中国を訪れている。


明治42年、京都大学講師を経て教授に就任。明治44年、辛亥革命が起こり、羅振玉と王国維が日本に亡命した時は、それを支援する活動もしている。大正15年(1926)、帝国学士院会員。京都大学を定年退官。その後は京都府相楽郡瓶原村の「恭仁山荘」で、書を書き、金石文の研究や論文の発表、大学での講演をして過ごした。


昭和9年、湖南68歳、恭仁山荘で亡くなった。

                                                                                

上野本「十七帖」後跋に書かれた湖南の識語。
この前に羅振玉の跋文がある。