左・有志者事終成 乙未七月八日 夏秋君正 一一学人種臣書


副島蒼海(文政11年・1828~明治38年・1905)、名は種臣。肥前佐賀に生まれる。父は佐賀藩校である弘道館の教諭・枝吉忠左衛門彰種。号を南濠と云った。蒼海はその次男で、兄は父と同じ国学者の枝吉経種(号は神陽)。蒼海は5歳の頃から父南濠の指導のもと、四書五経、百家の素読をしたという。20歳で弘道館の内生寮首班となった。父と兄の影響で、早くから尊皇攘夷思想を持ち、24歳での藩命による京都留学の折には、皇学、国学、漢学を学び、諸藩の志士と交流し、将軍を廃止しての天皇政権という、日本一君論を盛んに鼓吹した。しかし藩主鍋島直正に知られ、藩校に戻っての国学教諭を命じられている。

安政5年(1858・30歳)、兄・神陽の意により、勤皇討幕運動に奔走するが、幕府の追求を逃れて帰郷。間もなく安政の大獄が起きている。翌年、父・彰種が死去し、蒼海は同じ佐賀藩士の副島利忠の養子となったのであった。

33歳の時、藩命により江戸に派遣されたり、36歳で、長崎に建てられた洋学校・致遠館に於いて、アメリカの宣教師・フルベッキについて英語等を学んだ。

慶応3年(1867・39歳)3月、幕府に大政奉還を説くため、大隈重信と共に脱藩して京都へ。しかし5月には捕らえられて佐賀に送還され、謹慎処分を受けている。

明治元年(1868・40歳)3月、太政官新政府に用いられ、参与となり制度取調局判事に任ぜられた。翌年7月には参議となり奥羽平定に従事。東北諸藩の処置に関して、長州の厳罰主義に反対し、西郷南洲と共に寛典論を唱えた、庄内藩士はこれを徳行と称え、以来交わりが睦まじくなった。現在山形県内に蒼海の遺墨が多いのはこれによる。

明治初期は外交官として重要な国際問題を多く担当し、強い意志と論を以って解決に当たっている。「ロシア樺太国境問題」「ペルー国船マリア・ルーズ事件」「日清修好通商条約批准」などで、“正義の人道の人”と呼ばれた。明治6年の渡清の時、同治帝に謁見し、成婚を賀する国書の奉呈を行っている。その後、明治9年(1876・48歳)9月には、霞ヶ関の自宅を売却して長期に亘る清国漫遊の旅に出ている。帰国したのは明治11年の秋である。

明治12年には宮内省御用掛、一等侍講兼侍講局総裁、勲一等に叙せられている。以降、宮中顧問官、枢密院顧問官、枢密院副議長を歴任し、25年(1892・64歳)には第一次松方正義内閣において、内務大臣を務めている。

 左・尭日舜年夏 撃陶謌可想 太平之氣象 種臣       右・四言詩四行書                                      


蒼海の書は気魄の書である。一点一画も疎かにせず、気力を充実させ、生き生きと凄まじい迫力をもって書かれている。書線の姿から、かなり速い筆運びが見えるものと、紙に食い入るように、ゆっくり、じっくり運筆して表現した書線とがある。速い運筆の線は冴え渡り、紙面に切り込むように突き進んで行く。遅い運筆の線は、深い世界からの重厚な響きを感じさせてくれる。そして、かなり遅い速度の運筆の中では、筆の鋒に含まれる多量の墨が、紙なり絹本なりに、ゆっくり滲んでいく時間をも追体験させてくれる。

蒼海の書は、速書きよりも遅書きの作品が多いように思う。若い時代には速書きの作品も多く見られるが、中、後期は遅書きになっていったと思われる。

遅書きについて、長く副島邸の玄関番をしていた松村という人の話を紹介する。

   ある時、玄関の次の控え間で手習いをしていたら、知らない間に副島先生が後に立って居られ
 た。驚いて挨拶すると、「お前は何をやっているんだ」と言われた。松村氏は、手本を置いて手習
 いをしているのだから、何をしていると言われても、と不思議に思いながら、手習いをしています
 と申し上げた。ところが、「そんな手習いは駄目だ。書というものはこんな風に習うものだ」と言
 って、「仮に松村という字なら、木偏を書いて村にするんだが、外のことは全部忘れて、木偏の一
 番初めの一の棒を、全心こめて出来るだけ遅く、これより遅くは書けない位に遅く書く。今度はタ
 テの棒を同じく気をこめて出来るだけ遅く書く。後はそれに準じてやる。そして、書というものは
 大体、間架結構を頭にえがいて書いてはいかん。どんなに形が悪くても、少しぐらい歪んでもそれ
 は後の問題だ。出来上がってからのことで、書く前にそんなことを思うんではない。そうして修行
 を積んで居れば、曲がっても筋の通った書が出来る」ということを教えられた。

帰雲飛雨 滄洲老人種臣

曹渓 余書茲字畢日怎麼生是曹渓第一義喝 副島種臣

蒼海の書の特徴は他に、独創的な字形の多いことが挙げられる。奇抜な人の意表をつく姿で、気持ちの趣くままに、自由に形作っている。しかしよく見るとその中に、厳格さとか真面目さというものが窺え、得も言われぬ響きを持っている。他にはあまり例を見ないことである。

澄神堂


「澄神堂」は「為松阪氏之嘱 副島種臣」とあるように、箱根芦の湯「鶴鳴館・松坂屋本店」の蔵品。昭和46年3月、東京学生書道連盟(東書連)の理事・講師として合宿講習会へ行った。その時、別棟だったと記憶しているが、そこに掛けてあった作品。話はそれるが、前年まで東書連の理事長は豊道春海先生。前年春の理事会席上、書壇の事などを話された後の、「学生、若い人たちへの指導を、しっかりやって欲しい」という言葉が今も耳に残っている。