宮島詠士(慶応3年・1867~昭和18年1943)は米沢藩士・宮島誠一郎(1838~1911)の次男として山形・米沢に生まれた。名は吉美、通称は大八、詠士は字で、号は詠而帰廬主人。父の誠一郎は維新後、太政官政府の宮内省御用掛、爵位局主事補などを務め、明治39年より貴族院議員を務めた。詠士はまだほんの2、3歳の頃、父母と共に上京している。

明治10年、11歳の時、勝海舟の門に入り、14歳から、清国初代出使日本大臣(行使)何如璋の随員・黄遵憲等について中国語を習い、翌15歳で興亜学校に入り、翌年外国語学校に籍を移している。17歳の時、張廉卿の書いた「濂亭文集」と詩書幅の作品を見て感動し、廉卿への入門を決意した。この廉卿の文集と詩書幅は、父誠一郎と懇意であった清国第二代出使日本大臣黎庶昌が誠一郎に贈ったもので、詠士は明治20年(1887)5月、清国に渡り、湖北省保定(北京の南西約100km)にある蓮池書院で講主を務める張廉卿を訪ね、内弟子となった。この修行は張廉卿が亡くなる明治27年(1894)まで足かけ8年に及んでいる。

宮島詠士臨「九成宮醴泉銘」

 
明治10年、11歳の時、勝海舟の門に入り、14歳から、清国初代出使日本大臣(行使)何如璋の随員・黄遵憲等について中国語を習い、翌15歳で興亜学校に入り、翌年外国語学校に籍を移している。17歳の時、張廉卿の書いた「濂亭文集」と詩書幅の作品を見て感動し、廉卿への入門を決意した。この廉卿の文集と詩書幅は、父誠一郎と懇意であった清国第二代出使日本大臣黎庶昌が誠一郎に贈ったもので、詠士は明治20年(1887)5月、清国に渡り、湖北省保定(北京の南西約100km)にある蓮池書院で講主を務める張廉卿を訪ね、内弟子となった。この修行は張廉卿が亡くなる明治27年(1894)まで足かけ8年に及んでいる。

張廉卿書「五言詩」

 
張廉卿(道光3・1823~光緒20・1894)、本名は裕釗。廉卿は字で号は濂亭。湖北省武昌の人。道光26年の挙人。清末を代表する書道家の一人。欧陽詢、米芾を学んだ後、張猛龍碑を学び、独創的な楷書を書いた。

張廉卿の指導面に関していうと、弟子に対しては懇切丁寧な指導というのは殆どなく、弟子は自分で工夫して学んでいくという方向にもっていく指導法だったという。もちろん手本などはなく、決して安易な方向からの学び方ではなく、難しい方法を選ばせたという。

宮島詠士は張廉卿から北魏の張猛龍碑を教材として与えられた。師匠の臨書態度、自己確認の為に臨書するというその姿を見て、いわば独習に近い形で張猛龍碑を学んでいった。

詠士は師匠の教えをしっかりと受け継いでいった。張猛龍碑も張廉卿の書姿に酷似していた。明治27年(1894・光緒20)、張廉卿は亡くなった。2人の子息によって発せられた「哀啓」(死亡したことを知らせる報告書)には

と記されていたという。


張廉卿の亡くなった年の7月、日清戦争が始まった。やむを得ず帰国した詠士は翌年、「詠帰舎」を開設、3年後に「善隣書院」と改名された。この「善隣書院」は現在も継承されている。

宮島詠士書「延命十句観音経」

                       
   

      

康有為書『広芸舟双揖』(比田井天来書込本)

            
張廉卿について、同じ清末の書道家でもある康有為(1858~1927)は、その著書『広芸舟双楫』の中で、劉墉(石庵・1719~1804)、鄧石如(完白・1743~1805)、伊秉綬(汀洲・1754~1815)と並んで、清朝を代表する書家の一人である、と述べてみたり、北碑派の主要な人物は鄧石如と張廉卿であるとしている。それだけ高く評価していたのであった。

その康有為は明治31年(1893)、戊戌の政変から逃れて日本に亡命してきた。当時、憲政党常務委員だった犬養毅はこれを助けて援助を惜しまなかったという。康有為と犬養木堂との交わりは、政治面だけではなく書道の面でも理解し合った交流であった。そして木堂もまた康有為を通して、自分の憧れであった清朝の名家・張廉卿に強く惹かれていったのだった。

宮島詠士書「故内閣総理大臣犬養公ノ碑」  
左:剪装本・部分 右:製本

宮島詠士書対幅「華嶽雲開立馬看」

                        
宮島詠士の代表作の一つに「故内閣総理大臣犬養公之碑」がある。岡山市川入の犬養家墓地に立っている。高さ2.4m、幅1.7mの堂々たる楷書碑である。『張猛龍碑』と共に徹底して習いこんだ『九成宮醴泉銘』の書のイメージ、筆法によったとしているが、隋の『寧贙碑』に酷似している。いづれにしても張廉卿の書に憧れていた木堂にとって、張廉卿の内弟子として指導を受けた宮島詠士は、特別な存在であったのであろう。