松田南溟(1860・万延元年~1929・昭和4年)は三重・鳥羽藩士松田一郎の長男として生まれた。名は舒。南溟はその号である。家は代々鳥羽藩の祐筆であった。若くして上京し、工部省大学に学んだ。その後、松田雪柯(1823~1881)に師事し書を学んだ。ただ一説には、明治14年に病気療養の為に伊勢山田に来ていた松田雪柯に手本を書いて貰ったことがある、とも言われているのである。この上京前の南溟についてのことは、弟子の野本白雲(1897~1957)が書いているので、どちらの説が正しいか迷うところとなっている。

更に野本白雲は、高田竹山(1861~1946、『五體字類』の監修者)が伊勢山田に滞在中に南溟が数回に亘って訪ね、書道に関しての種々の情報交換をしたことや、竹山が自分の父親に南溟のことを、東京在住の書道資料の収集家に紹介してくれるように頼んだこと等を、雑誌『書芸』に書いている。

南溟は上京後、逓信省に奉職したことがあった。先輩には近藤雪竹(1863~1928)がいて、日下部鳴鶴(1838~1922)に入門するよう奨められたが、断っている。結局、指導者を仰がず、古碑法帖類や墨蹟等を研究することで、書を学び自得することとなった。ただ、先輩や書友との交際によって多くの益を受けたことは確かなようで、比田井天来、久志本梅荘、丹羽海鶴などとの交流が特に挙げられる。

図①松田南溟草書三行幅・比田井天来旧蔵(高橋蒼石蔵)は七言詩の草書幅。永く書学院に蔵されていた作品で、古典研究の成果が遺憾なく発揮された、南溟独特の書風が現れている。

図②「雁塔聖教序・比田井南谷書き込み本」(高橋蒼石蔵)は、比田井天来(1872~1939)と二人で『雁塔聖教序』の筆意の研究の成果について、比田井南谷先生が天来から聞いたことを、印刷本に書き込んだものである。蝉翼拓の精拓で細部の精密な刻も奇麗に見えている。朱と金泥の二種の点が拓本部分に打たれ、それぞれの点についての、南溟と天来の二人の見解をまとめたことを、南谷先生が印刷本(袖珍本)の空欄に鉛筆書きされている。例えば「妙」字については、「旁の終画の先端を□で補う」という具合である。


松田南溟は昭和4年(1929)2月6日に亡くなった。生前、比田井天来等との交流があったことには前回で少し触れたが、川谷尚亭(1886~1933)が主宰する甲子書道会の顧問も務めていた。尚亭が書いた南溟の追悼文が『書之研究』(昭和4年5月号)に掲載されているので次に原文のまま紹介する。

本會顧問 松田南溟先生逝く   川谷 賢

高空に懸れる明月にも似てく俗界とも離れ、現書道会に淸光を放つてゐたのは南溟松田先生であつた。

非凡の頭腦、天賦の靈力を以つて從來の迷說を打破し、深遠なる用の理を闡明せられ古今の書法を説破せられたのは先生であつた。

名利を厭ひ高節を貴び、淸廉謹直、卓々として現代に高步せられたのは先生であつた。

然れども餘に造詣深かりしが爲に、餘に見識が高かりしが爲に、而して又餘に淸かりしが爲に幼稚なる書道界は先生の偉大を知るもの少なく、混濁せる社會はその人格の尊崇すべきを解せず一面より見れば先生は不遇の人であつた。

しかも俗界の人でなかつた先生にはこは一顧だも要する事でなかつた。先生の世界は書道の天地の外にはない。

張、鍾と談し、羲、獻と徘徊するのが無上の樂であられた。書道の世界は先生の室に展じ、晩年に至つてこれ等は皆疊んで一挙頭裏に収められてゐた。登化前三日天來先生と談して病を忘れ鐵亞鈴の如く重いといふ手を動かしながら漢晉遺漢簡中の敎字の讀めたことを喜んだといふ一事での先生が如何に常人と異つてゐたかを知る事が出來る。何等の悲肚、何等の森嚴ぞ。―後略―

南溟と天来との交流について前回ふれたが、もう少し述べてみたい。

大正4・5年ごろまで二人の深い関係は続いたが、あまりにも親し過ぎ、近付き過ぎるのはよくないと、天来の方から切り出したという。

図③は南溟の書稿(比田井天来旧蔵・高橋蒼石蔵)である。天来が南溟から譲り受けたもの。大正3・4年頃のものと思われる。図④「王安石詩」(谷川北厓氏蔵)は比田井天来の条幅作品。南溟の書稿と同じ王安石の詩を書いたものである。天来の他の作品の書風からいって大正3・4年ごろのものではないだろうか。

比田井南谷先生の話では、天来が南溟に「我々の字がだんだん似てきた。同じことをやり過ぎているようで、これではいけないと思う。しばらくこういうふうに、いつも一緒に研究したり、字を書いたりすることから離れるようにしましょう」と言ったそうである。




書架に『全唐詩鈔』(全24冊)がある。南溟、天来と所蔵者の手を渡った唐本仕立ての書籍で、刊行が乾隆己卯とあるので、清朝・乾隆帝24年(1759)の御品。太宗・12首、玄宗・26首から始まり、3人の皇帝の後、則天武后・1首や楊貴姫1首、等と続く。編者は呉景華という人。掲載されている詩人の中で、一番多く採られているのが杜甫である。609首ある。続いて李白の364首となっている。

図⑤は『全唐詩鈔』(松田南溟書・高橋蒼石蔵)の第4冊(巻11~14)の表紙である。松田南溟が目次として、この冊に掲載されている詩人の名を書いている。小気味良いというか、品格があるというか、南溟独自の細楷である。31%の縮写となっている。

やや扁平で横広の結体で書かれているこの細楷は、南溟のライフワークの1つ、「木簡」の研究においての ”朱書釈文”の形から出来上がってきたのかもしれない。図⑥に『西域出土漢晋簡牘』と、南溟が題箋を書いている折帖。乾坤2冊の一部を掲載した。小さな木簡をコロタイプ印刷した横に、南溟が小さく釈文を朱書している。南溟旧蔵で、現在書学院に蔵されている。

図⑦松田南溟編『五体字鑑』(高橋蒼石蔵)は本文の部分。図⑧は題箋。これは王羲之の集字と思われる。図⑨は封面。12冊各冊の扉に当たる。この形、姿は日下部鳴鶴が呉昌碩と呉隠から贈られた「西泠印社木活本・校碑随筆」(家蔵)の封面と酷似している。

他に南溟の著書に『非八分』がある。書体の分類、変遷についての研究書で、S氏が肉筆原本を入手した。ということを御本人から聞いた。いずれ拝見させていただこうと楽しみにしている。