阪 正臣(ばん まさおみ)(安政2年・1855~昭和6年・1931)、本姓は坂(さか)。幼名は政之介、字は従叟。号を芽田、観石、桃坪といい、斎号を樅屋といった。尾張横須賀(現在の愛知県名古屋市)に生まれた。書道家、歌人、宮内省御歌所寄人(おうたどころよりゅうど)。また、東京女学館講師、華族女学校(現女子学習院)教授、國學院大学講師を務めた。幼い頃、郷里の神官・坂廣雄に書と歌の手ほどきを受け、特に楷書は米庵流であった。青年期では早くから唐様(今でいう漢字書)は貫名菘翁(1778~1863)に注目していた。正臣の父正緒は度々尾張から京に上り、雅楽を学び、茶人たちと交流し、俳諧を嗜み、絵もよくした風流人で、当時の京の書家、文人、特に貫名菘翁、頼立齋等と深く交わった。菘翁は正緒を尾張に訪ねて12日間も逗留したこともあり、正緒も京に上った時は必ず菘翁を訪ねていたという。そのような親しい間柄であった為、阪家にはかなり多くの菘翁の書跡が蔵されていたと思われ、正臣はその影響を強く受けたのであろう。

昭和53年、阪正臣の高弟・山下是臣先生を大阪堺市もご自宅に訪ねた事がある。比田井南谷先生のお供をして、菘翁の書跡の撮影をする為であった。山下先生御自身も、阪正臣の影響で菘翁をコレクションするようになったという。また、阪正臣は唐様の書は菘翁だけを目指した訳ではなく、山下先生がいただいた楷書のお手本は唐詩五絶は、いかにも虞世南の筆意のものであったし、行書は『集王聖教序』の臨書であった。また、道風の『玉泉帖』も習われていた、とも話しておられた。そして後に学んだ山下先生のある文章には、「仮名はお若い時『桂宮万葉集』を徹夜で臨書したり、自分へのお手本は『高野切第二種』と『御物和漢朗詠集』でした。また、上代様の仮名だけではなく、漢字の草書から仮名はきているのだから、『十七帖』を充分習い込んで、自分なりの仮名を書いたらどうか、と教えられた。そして、書は筆の練習だけでは駄目だ、読書に依って精神を錬り、作歌に依って風懐を養うようにしなさい、とも教えられた」とあった。

阪正臣書翰〈比田井小琴宛〉明治38年(書学院蔵)

阪正臣は比田井小琴(明治18年・1885~昭和23年・1948)の和歌の先生である。明治30年、御歌所寄人となり、当時の伝統的作風の和歌の中心的指導者の一人となった。明星派等の自由で新しい叙情的表現派に対して正臣は、研鑽と修養を旨とする文雅の気風を実践し、古典主義を貫いたのであった。明治31年9月から比田井小琴は阪正臣の内弟子となった。小琴13歳のときである。比田井天来上京の翌年に当たり、天来の要請による、日下部鳴鶴の仲介があったといわれている。

比田井小琴自詠和歌の阪正臣による添削