吉田苞竹(よしだほうちく)(明治23年・1890~昭和15年・1940)は、山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)に吉田広治、久江の長男として生まれた。本名は茂松。晩年は懋(しげる)をよく用いていた。字は子貞、苞竹は別号。別号に清泉、無為庵主人、逍遥窟主人等がある。
明治34年(1901)朝陽尋常小学校を卒業。1年より常に首席で、聡明な少年であった。翌年、黒崎研堂に入門し、書と漢籍を学んでいる。
黒崎研堂書「藻川月嶽篇・識語」
吉田苞竹(よしだほうちく)(明治23年・1890~昭和15年・1940)は、山形県西田川郡鶴岡町(現在の鶴岡市)に吉田広治、久江の長男として生まれた。本名は茂松。晩年は懋(しげる)をよく用いていた。字は子貞、苞竹は別号。別号に清泉、無為庵主人、逍遥窟主人等がある。
明治34年(1901)朝陽尋常小学校を卒業。1年より常に首席で、聡明な少年であった。翌年、黒崎研堂に入門し、書と漢籍を学んでいる。
黒崎研堂(1852~1928)は、出羽国庄内(現在の鶴岡市)に、庄内藩家老・酒井了明の三男として生まれ、17歳で戊辰戦争に出陣している。後、黒崎友信の養子となり、明治19年に日下部鳴鶴に入門している。書家として、漢学者として明治、大正、昭和にかけて鶴岡において、多くの門人たちを指導していた。苞竹の雅号は研堂よりの授号である。
この黒崎研堂に対して、比田井天来(1872~1939)は大正3年に、「藻川月嶽篇」と題する詩を呈上している。鳴鶴門においては天来の先輩にあたる鶴岡の書家、碩学の黒崎研堂に、訪問のお礼も込められた四言詩である。それに対する研堂の識語があるので掲載してみた。
吉田苞竹書「論鄭道昭摩崖詩」(自作「論書ノ一」)
吉田苞竹は明治44年(1911)山形県師範学校を卒業し、西田川郡大泉尋常高等小学校の訓導となった。
大正3年(1914)8月、比田井天来が鶴岡にやってきた。苞竹は研堂のもとで天来に会っている。その当時のことを苞竹自身が書いた文章が残っているので紹介する。
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郷里に於いて黒崎研堂先生に師事したのが高等2年生の時で、それから満12年間は先生とそっくりの字を書きたいと思って、一生懸命に習ったものである。先生はこれから手本を書いてやる必要なしと申された丁度その折に。比田井天来翁が郷里に漫遊せられた。研堂先生の紹介によってお目にかかり、それから碑碣法帖を学ぶ必要を痛感し、更に日下部鳴鶴に入門して、諸碑帖の研究に没頭したのである。
黒崎研堂先生によつて、高邁の精神と韻致のある書風を十余年も習ひ、なほ先生が世を去られるまで、依然として精神的の教訓や、書道上の卓見を承つたのである。
私は私の経験から見ても、代一段の専一を要する時代は側面も掉らず、一路邁進していただきたいと思ふ。私は小学校時代から習つたので十余年も要したのであるが、二十歳前後から習ふとすれば、十年以内でも十分根底の出来る人があらうと思ふ。
第二段の「広大を要す」といふのは、即ち古碑帖を広く学び、古来大家の所論を大いに参酌し、以て自己の大ならんことを図ると同時に、自己の短所を捨てて、長所を伸ばさうと努力することを指すのである。私の経験から云えば、天来翁によつて諸碑帖の研究に入り、鳴鶴翁に師事して更に一層の鍛錬を積み、鳴鶴翁の仙去後は、あらゆる古碑帖の蒐集に苦心して自らを鞭撻してゐる。即ち古碑帖の研究に進んでから、今やザット三十年にもなるが、とても\/書が脱化する処などに到ることは出来ない。収集した古碑帖の数は今では一万ではきかない。土蔵にも収まらないで、あちらにもこちらにも積み重ねてある。しかしまだ\/ほしいものが沢山ある。研究上どうしても手に入れたいと思ひながら、日本にはまだ渡つてゐないものも少なからずある。
よいものを数多く見ると、自分の書はいよいよ拙く見える。私が凡庸なので特別かもしれないが、目が高くなると、鼻が低くなるのは誰にも当てはまることであらうと思ふ。他人の書を無暗に罵倒する人はどうかと云えば見聞が狭いやうである。(「学書の三段)より」
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苞竹の随筆文を掲載したが、これ等は苞竹が生前に雑誌等に掲載した文章を纏めて、亡くなった翌年・昭和16年10月に一周忌の記念として発行された『書談』中より紹介したもので、本全体を通して、苞竹の書に対する思いが如実に語られている。
吉田苞竹は、大正4年(1915)、日下部鳴鶴門に入門。この年、文検に合格している。
後漢書語「為善最楽」
水墨「石」(磊塊出胸中)
左:禅林類聚「水急不流月」
右:七言二句「千林映日鴬乱啼。萬樹圍春燕雙飛。」
大正5年(1916)8月、天野千代女と結婚し、山形縣立酒田高等女学校助教諭となり、2年後には教諭となっている。この頃、『書勢』(大同書会・日下部鳴鶴)、『筆之友』(書道奨励協会)等の競書雑誌で活躍していた。
大正8年3月、苞竹は書道専心研究の大願を持ち、職を辞し上京。居を赤坂区青山南町5丁目に置く。苞竹30歳のことである。この頃苞竹は、共に競書雑誌で活躍する高知在住であった川谷尚亭(1886~1933)と知り合い、書翰を交わすようになっていた。
この前後の状況について、美術評論家の田宮文平先生の文章が、吉田苞竹記念館開館二十五周年記念『比田井天来・川谷尚亭・吉田苞竹・三家特集展図録』(平成11年6月22日発行)に掲載されているので次に紹介する。
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(…前略…)吉田苞竹宛の川谷尚亭の書簡が二通、こんどの三家展ではじめて公開される。
このうち大正8年(1919)1月28日付のものは、川谷尚亭が上京してまもなくのもので、また、吉田苞竹にとっては上京直前に受けとったものである。これを読むと吉田苞竹の上京の意志の固いことが伝わり、川谷尚亭がそのために職を見つけることに奔走している様子が分かる。しかし川谷尚亭も上京後、まもなくのことで人脈も少なく、なかなかおもうように捗らず、吉田苞竹が学校(山形県酒田高等女学校)を急いで退職することのないよう諌めている。
しかし、吉田苞竹の上京への意志は固く、大正8年(1919)3月には酒田高等女学校を退職、一路、東都を目指したのである。翌大正9年(1920)1月には三菱製紙への就職も決まった。かくして三菱造船の川谷尚亭、三菱製紙の吉田苞竹、日本郵船の松本芳翠の競書仲間の三者が、東京馬場先門外の赤煉瓦ビルに期せずして集まり、昼休みのわずかの時間にも往来して書について熱っぽく論じたのである。(…後略…)
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大正10年、苞竹は松本芳翠、相澤春洋と共に、雑誌『書海』を刊行する。しかしこの『書海』は後、松本芳翠が単独発行者となり、相澤春洋は雑誌『春洋』を創刊し、苞竹は昭和3年に『書壇』を発行することになった。またこの年は、大著『碑帖大観」(全5集・50巻)が完結した年でもあり、同志、川谷尚亭、高塚竹堂、田代秋鶴、松本芳翠、鈴木翠軒と共に、「戊辰書道会」を結成した年でもある。
苞竹は昭和7年(43歳)には「東方書道会」の創立発起人になっている。この年の11月に開かれた第一回東方書道会展は、第一部漢字、第二部かな、第三部臨書、第四部篆刻という構成であった。
昭和15年(1940・50歳)、講演中に倒れ、5月1日、帰らぬ人となった。
昭和14年、東京府美術館で開催された第三回第日本書道院展の芳名録に書かれた吉田苞竹の署名。
徳川夢聲、東海林太郎、相澤春洋、林桂(陸軍中将、第5師団長)の名も。